御由緒 |
蛭児神社のいわれ
このお社は、遠く神代に創建されたものと伝えられていますが、現在の社域には、寛延三年(西暦一七五〇年)の遷宮御造営といわれます。
祭神は蛭児尊一座となっています。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子蛭児尊は三歳になってもなお、脚がたたれませんので「あまのいわくすの船」に乗せておながしになられました。
その蛭児の尊が此処に漂着されました。そのいわくすの船から枝葉を生じて巨木に成長しました。
現在の楠の神木は享保十三年(西暦一七二八年)国分地頭樺山主計久祢?が、いわくすのあとに植えついだものです。
この附近一帯は奈毛木(なげき)の森といわれ大隈の国の景色の良い場所として古くから歌によまれています。
古のなげきのもりの名もつらし
わがねぎごとと神つみづがき (夫木、後鳥羽天皇)
よのつねの秋のものかはわびびとの
なげきの森のみやつふかさは (名寄、二? 親王)
神さぶるなげきの森のほととぎす
ひくしめなわも なくやこし (歌枕 久我太政大臣通光)
あわれともおもいもやしるわが恋を
なげきのもりの 神にいのらむ (六百番 歌合権太夫)
春は花秋はもみじのあかなくに
ちるやなげきのもりといふらん (三十五卋 遊行)
山かぜをなげきのもりの落葉かな (細川幽斎)
神域にあった神代古跡から出たと思われる、さんけいきんしゅうもんたい花文鏡(唐式鏡でで今から千二、三百年のもの)が社宝として保存してあります。
蛭児尊が漂流されたときつかわれた「水棹」(みさお)が活着したと伝えられるめずらしい「金筋竹」も境内にあります。
漁業 航海 商売の神として信仰されています。
(社頭案内板より、原文のまま、一部判読不明箇所有)
神代の楠
古事記・日本書紀の神話にイザナギノミコト(男神)イザナミノミコト(女神)が結婚する話があります。
二人の最初の子供は、三歳になっても足腰が立たない蛭(ひる)のような子どもであったため、両親はその子をヒルコノミコトと名付け、天の岩楠船に乗せて、天上から流し捨てた。天の岩楠船は、現在の場所に流れ着き、根付いてこのあたりのクスの森(ナゲキノ森)となったと言い伝えられています。
この岩楠船から生まれたという楠の枯れた木株の絵図が江戸時代の三国名勝図会(天保十四年一八四三)に載っています。ここの枯れた木株は、絵図の木株にあたると思われます。
この木株は「神代の楠」と呼ばれ尊ばれてきました。
(案内板より) |