薩摩國一の宮「式内社」枚聞神社(ひらきき) HOME blog

鎮座地 〒891-0603 鹿児島県指宿市開聞十町1366 旧薩摩国 頴娃郡  
電話  0993-32-2007
旧社格等  国幣小社(現別表神社)
薩摩國一宮
式内社 薩摩國穎娃郡 枚聞神社
御祭神  ・大日孁貴命
(配祀)
 ・天之忍穗耳命 ・天之穗日命 ・天津彦根命 ・活津彦根命 ・熊野樟日命
 ・多紀理毘賣命 ・狹依毘賣命 ・多岐都比賣命
御由緒  薩摩一宮枚聞神社由緒記
祭神 大日孁貴命(天照大御神)を正祀とし、他に皇祖神八柱神を併せ祀るとあり。
   天之忍穗耳命 天之穗日命 天津彦根命 活津彦根命 熊野樟日命
   多紀理毘売命 狹依毘売命 多岐都比売命
神社の沿革
 御鎮座年代を詳らかにせずと雖も、社伝には遠く神代の創祀なりと伝う。既に貞観二年三月、薩摩国従五位下開聞神加従四位下と三代実録に載せられて居るのを始めとして、同書には数度の神位昇叙の事を記され、殊に貞観十六年七月には開聞神山の大噴火の状態を太宰府より言上、神意を和むる為勅命により封戸二千を奉られたことを記載して居る。
 延喜式には薩摩国頴娃郡枚聞神社と枚聞の文字を用いられている。古来薩摩国の一宮として代々朝廷の尊崇厚く度々奉幣あり、殊に島津氏入国の後はその崇敬絶大にし、正治二年社殿再興以来、歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、元亀二年頴娃領主家の内乱により千九百余町の神領を失ったのを、天正二十年九月には島津家より改めて田畠合計二十四町歩を寄進され、旧藩時代は別当寺瑞応院と共に祭祀を営んで来たもので、明治御治定の折同四年五月国幣小社に列格仰出され、現在薩摩の国一宮として、又神社本庁所属別表社として地方の崇敬を集めている。
一般の信仰
 南薩地方一帯の総氏神として又地方開拓の祖神として厚い崇敬が寄せられて居るが、特に交通安全、航海安全、漁業守護の神として附近航行の舟人等から厚く信仰されて居る。往年島津家に入貢していた琉球人等は特に航海中開聞岳の雄姿を遥かに拝するや神酒を奉って無事を祈ったものの由、現に神社には琉球王の名に依って航海安全の神徳を奉謝して献納された額面等が数面保存されて居る。その他旧二十三日には他国に出稼ぎに出かけて居る肉親の人達の無事安泰を祈ってお参りする風習が今でもなほ氏子崇敬者の間に盛んに続けられて居る。
社殿及び建築様式
 朱塗りの第二鳥居(両部鳥居)を入れば、正面に唐破風の、向拝のついた勅使殿がある。これは鹿児島地方独特の建物で、勅使門の変形して殿となりしものか、朱漆塗極彩色の美しい建物で、左右に廻廊に類する長庁が連なる。
 勅使殿の奥は拝殿、幣殿、本殿と連って権現造の様になって居る。本殿は千木、勝男木を有し、入母屋造妻入、総朱漆塗極彩色で、特に向拝柱の雲龍の彫刻柱は、其の製作の優秀を称せられて居る。是等の建物は慶長十五年九月、島津兵庫入道維新公によって再興せられ、天明七年島津重豪公によって改修せられたものである。
神話、伝説、口碑等
ィ、竜宮伝説
 開聞岳は上古鴨着島と称し竜宮界であり、海神豊玉彦命の宮地であった。彦火々出見命は御兄火照命の釣を紛失し、お困りになったのを塩土翁の教によって、海神の宮に赴かれ、その門前の井戸の辺で豊玉彦命の御女豊玉姫命に御逢いになり遂に御結婚を遊ばされた。
 枚聞神社の北方約三百米位の玉の井の遺跡はその井戸であり日本最古の井戸と伝えられている。更に其の西方の岡には命等の御結婚をされた聾入谷の遺跡がある。
ロ、天智天皇御巡幸伝説
 開聞岳の麓の岩屋に一仙人が行をしていたら或日一頭の鹿が現はれ法水を舐めたところ忽ち懐妊して一児を分娩した。之を瑞照姫、又は大宮姫と申す。天性の麗質世上に聞こえ、二歳にして上京藤原鎌足に育てられ、十三歳にして宮中に召され天智天皇の妃として御寵愛を受けること深かったが、他の女后等に嫉まれ遂に宮中を連れ出でて伊勢の阿野津より船出し山川の牟瀬浜に上陸郷里へ帰って来られた。
 其の時大甕二個を持ち帰られたが、一個は途中で破損した。他の一個は現在尚神社の宝物館に保管されている。其の後天皇は姫を慕って薩摩に御下向され、姫の許で余生を送られ御年七十九歳で崩御遊ばされたと伝記には記されている。
 (神社パンフレットより)
 *註:貞観二年(860年)、正治二年(1200年)、元亀二年(1571年)、天正二十年(1592年)
    慶長十五年(1610年)、天明七年(1787年)
参拝月日  11/28/2008

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一の鳥居 社殿全景