御由緒 |
当社の建立は、古碑・古文書・棟礼等の古記録によると、肥中住民の発祥の地である刈束山上に、往古より御鎮座の出雲の三神を、現在の社地(肥中の関)に御遷座申し上げ、石室を建立したものであるという。それは戦国時代の弘治元年(1555)であった。
その後、江戸時代の元和四年(1618)の棟札に、
奉造立七社大明神御神殿、氏子中励勢力、令再興者也、天長地久、天下泰平、国主御安全祈所
元和四戊午八月十五日
石井権太夫
氏 子 中
とあり、再興されたことが分かる。
延宝二年(1674)現在の本殿を時の庄屋塩瀬惣右衛門が、幕府の許可を得て建立し、続いて天和元年(1681)に拝殿が奉建された。
当地は大内氏の時代から、大内氏・毛利氏が九州その他の地に対しての進攻の拠点として、水軍を配置した要地であった。
この頃、当地七つの講が有り、それは「恵比須講・宮地講・天神講・神明講・荒神講・金比羅講・庚神講」であった。それぞれの講ごとに小社を祭り、講内の信仰が大変篤かった。
当社は、講の総鎮守神として「七神大明社」と呼ばれた。当初から、神田郷総氏神(住吉八幡宮)の摂社であったが、昭和四年(1929)村社に昇格した年に、肥中村・特牛村・荒田村・鳴滝村・堀越村五ケ村の氏神となった。
当社は古くから開拓・産業・縁結びの守護神として、崇敬されて来たのである。
社殿の造修は、江戸時代の寛延二年(1749)・寛政四年(1792)・文化元年(1804)・昭和五十四年(1979)に行われている。
明治三十三年(1900)の『神田下村諸社務日誌簿』によると、
八月十一日七社頭にて虫除祈念之事
一、四拾壱銭
右本社旧来田頭行幸之際、神輿内ニ紙手を沢山ニ入置、
凡平紙八状位切、夫ヲ肥中より荒田迄ノ農家田毎ニ建
ル由、其例ヲ以、今度相調引渡、三字惣代元え持せ候事
とあることにより、田ごとに御幣を立てたことが分る。
(山口県神社誌)
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