「式内社」速谷神社(はやたに)            HOME   blog 

鎮座地 〒738-0026 広島県廿日市市上平良308−1 旧安芸国 佐伯郡   
電話  0829-38-0822
御祭神  ・飽速玉男命
旧社格等  式内社 安藝國佐伯郡 速谷神社 名神大 月次新嘗
  旧國幣中社
 
御由緒  創立年代は不詳なれど、上古より鎮座の古社である。
当社伝記に「天孫降臨ノ神卅二神ノ内、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命、則チ此神ナリ。
 旧事記ニ曰ク、天湯津彦命ハ安芸国造等ノ祖也。国造本記ニ曰ク、阿岐国造ハ志賀穴穂(成務天皇)朝、天湯津彦命五世ノ孫、飽速玉命定賜国造云々」と記述され、御祭神は人皇十三代成務天皇朝、安芸国造に任ぜられ当国一円を統べ給い、皇化を布き国土開拓の祖神である。
 当神社が正史上に初見するのは『日本後紀』の弘仁二年(八一一)七月、速谷神と伊都岐島神が名神例に預かったことであり、次いで『三代実録』の貞観元年(八五九)正月、伊都岐島神と速谷神を従四位下に進め、同九年十月に従四位上に進められている。
 延長五年(九二七)の『延喜式』の神名帳には「佐伯郡二座(並大)、速谷神社(名神大、月次、新嘗)、伊都岐島神社(名神大)」とあり、四時祭の祈年祭に神祇官の祭る「奠幣案上神」三百四座の内に預かり、臨時祭の名神祭神二百八十五座の内に加えられており、中国、九州で唯一の延喜式官幣大社として殊遇を受けた。降って承平五年(九三五)海賊調伏祈祷十三社の内に加えられ、天慶三年(九四〇)正四位下に昇叙された。
 その後、伊都岐島神社(厳島神社)が平家一門の信仰を集め隆盛したのに対し衰退の途を辿り、中世には厳島神社の社領が平良荘にも及び、その社領内に鎮座する関係で当神社は厳島兼帯七社の一社となった。文明十一年(一四七九)には厳島神社神主、桜尾城城主藤原教親が梵鐘を奉納するなど桜尾城主藤原氏も代々奉祀して社領も寄進し、年五度の祭祀は盛大に執行された。
 天文十年(一五四一)には大内義隆が太刀一腰と神馬一疋を寄進、さらに永禄六年(一五六三)には毛利隆元が立願のため御湯立七年を進めており、信仰崇敬は大なるものがあった。社領については天文十六年(一五四七)の尊海文書(当社蔵)によれば、当社修復のため大願寺尊海が田地一町一反、鐘撞料二反余を充てており、同二十年の毛利家寄進の厳島神社社領中に当神社の修理免として平良庄講丸内に四石、灯明銭として山里郷納銭内に三貫九百五十六文があった。また、御祭事に分米二十七石七斗五升があったことが知られる。
 降って広島藩主浅野光晟は慶安元年(一六四八)藩費を以って社殿を造営、以来、藩の篤い崇敬を受けている。社名は中世に至って速田大明神と称されるようになったが、明治六年、旧名に復して速谷神社と改称、郷社に列した。同八年には有栖川熾仁親王御染筆の扁額奉納、大正十三年に国幣中社に列格した。
 戦後は神社本庁の別表神社となる。昭和六十一年春には不慮の災火により本殿ほか五棟の社殿を灰燼に帰したが、同六十三年には優雅で荘厳なる新社殿が竣工した。
以上
(平成祭データ)
参拝月日  11/24/2006

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              一の鳥居                                    拝殿