御由緒 |
日本書記に「一書曰、伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去りましぬ故紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる。
土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用いて歌い舞いて祭る」とあり、即ち当神社にして、其の由来するところ最も古く、花窟の名は増基法師が花を以って祭るより起これる名なり。
花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。南に面し其の正面に壇を作り、玉垣をかこう拝所を設く。此の窟の南に岩あり、軻遇突智神の神霊を祭る。この神、伊弉冉尊御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため寛文9年9月及び元禄8年11月四至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。
又、昭和23年4月10日天皇陛下が皇太子殿下の当時、熊野地方御見学の途次御立寄りあらせられる。
(平成祭データ)
国史跡 熊野参詣道伊勢路 花の窟 Hananoiwaya
この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。
祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お綱かけ神事」が行なわれる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇を括り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書こいざなみのみこと、火神(ひのかみ)を生むときに、灼かれて神退去りましぬ、故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにひと)此のの神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦花を以て祭る、又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用て、歌ひ舞ひて祭る。」と,記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である、その紀行丈「いほぬし」には、見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経を籠め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏(みろくぼとけ)の出給はん世に`取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、 この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・と花の窟を述べている。
People from all around honor this massive rock formation for its spiritual importance.
(社頭案内板より)
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