御由緒 |
当社は、北九州市若松区白山三丁目に鎮座しており、イザナミノミコト、ククリヒメノミコト、コトサカヲノミコトをおまつりしている。
霊峰白山を神体山として、白山大神を奉斎する加賀国(石川県鶴来町)シラヤマヒメジンジャの御分社であります。
創め元正天皇霊亀二年(716)四月白山女体権現を藤木童子丸(現在の神元)に勧請し、村落の発展に伴い、寛永六年(1629)修多羅村稲荷山(現在の古前辻ケ谷附近)に産土神(氏神様)として奉祀されました。
貞享二年(1685)その位置が村端の故浜田城址北ケ坂の岡(現在の若松保健所附近)に御奉遷、又々、その地が村下にて、村中に災害が多いいうので、享年四年(1719)秋九月二八日、葉山の現在地に御遷座されたのであります。とくに享年二年(1717)筑前黒田藩が、修多羅字石崎浜(現在の修多羅バス停附近)に貢米積立所を芦屋より移し、遠賀・鞍手・嘉摩・穂波四郡の貢米を集めることとなり、藩主の尊崇とみにあつく、大庄屋はじめ庶民の崇敬が加わりました。
現在の御社殿は、御鎮座三百年・皇紀二千六百年奉祝記念として、昭和十年着工、同十三年造営された銅板葺総檜神明造で同年当時若松で唯一の縣社に御昇格したのであります。
御配神の須賀大神は、もと境内に須賀神社としてスサノウノミコトの、竒魂・荒魂をまつられており、夏の疫病退散・災害消除祈願能祇園大祭神幸式(七月)氏子山笠奉納神事(戸畑の幟り山・提灯山と同型)は、江戸中期より修多羅祇園として盛大におこなわれました。
又、菅原大神は、もと修多羅字筵屋(元の青葉ケ丘女子高校体育館附近)にまられてあった筵屋天神(太宰府天満宮と同じ祭神)で学業の神として多数の崇敬者があります。
大正九年二月、当社の境内にご遷座、前記須賀神社として奉祀されておりましたが、昭和十三年の御造営の折、御本殿の相殿に配神として合祀されたものであります。
(平成祭データ)
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