鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)    HOME blog

鎮座地 〒819-1601 福岡県糸島郡二丈町大字深江2143-1 旧筑前国 怡土郡  
電話  092-325-0309
旧社格等  村社  
御祭神  ・譽田別天皇
 ・氣長足姫尊
 ・武内宿禰命
御由緒  鎭懐石八幡宮
鎮座地 二丈町大字深江字萩原二三一〇番地の二
祭 神 神功皇后、応神天皇(八幡大神)、武内宿祢
例祭日 放生会、九月末の日曜日(昔は旧暦八月十五日

由 緒 
 鎭懐石八幡宮御實紀などによると、神功皇后(息長足日女命)は応神天皇を懐妊しながらこの地を通って、朝鮮半島へ船を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎭懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って帰国後宇美の里で、応神帝をご安産された。
 そこで、神功皇后が経尺の璧石を、子負ケ原の丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎖懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。
 昔は、深江字津ノ上の石垣で築かれた高台に、ご社殿があり、数百年の年輪を刻んだ大きな松の木々が鬱蒼と生い茂っていたが、場所が狭かったために、昭和十一年(一九三六)南側山手の、字萩ノ原の広い土地にご遷座し、幣殿、拝殿などを新築した。
 拝殿の床板は、八十五センチを越える幅の広い松坂が使われており、当時この周辺に大きな松の木々が多かったことを物語っている。
大きな松の木も、昭和二十五年頃から、松食虫の被害が広がり、伐採されたため、昔の面影は薄れて寂しくなった。

萬葉歌碑 
 安政六年(一八五九)六月に建てられた九州最舌の萬葉歌碑である。碑陰に彫られた説明に、「幸い願主あり 福井浦の住 釘本良人長房 同久平長邦乞うて 之を鐫り且在縣の好士 自他の信人 各其志を副 以て之を建つ
           祠 官 久 我 信 俊
 安政六年巳未六月」とある。
書は、豊前中津藩の深江在住の儒学者であり、書役に任じられた日巡武澄という人である。
 また、近世の深江は、寺沢氏の唐津藩や公領など数度の変遷を経て、享保二年(一七一七)七月二十七日から、明治四年の廃藩置県まで百五十四年間、飛地として中津藩に属していた。

鎮懐石碑 
 文化十一年(一八一四)に建てられた碑で、鎮座の由来を書いている。文は亀井南冥の高弟、苓州江上源伯。書は福岡藩の藩医であった米山上村樗という人で、その子孫は神奈川県に住んである。
 鎭懐石碑の文を書いた苓州江上源伯の孫の、江上伝一郎と、後に萬葉歌碑を建てた久我(靭負)信俊は、相携えて安政二年(一八五五)に、江戸の平田門下に入門したという不思議な巡りあわせもあった。
(平成五年発行、福岡県史)

(神社パンフレットより)
 
参拝月日  05/19/2007
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             参道入口の鳥居                                 拝殿