肥後國一の宮「式内社」阿蘇(あそ)神社          HOME blog

鎮座地 〒869-2612 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1 旧肥後国 阿蘇郡 
電話  0967-22-0064
旧社格等 式内社 肥後國阿蘇郡 健磐龍命神社 名神大
式内社 肥後國阿蘇郡 阿蘇比咩神社
 肥後國一宮
 旧官幣大社
 現別表神社
御祭神  一の宮:健磐龍命(たけいわたつのみこと)   神武天皇の御孫
 二の宮:阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)  一の宮の妃)
 三の宮:国龍神(くにたつのかみ)       二の宮の父神
 四の宮:比咩御子神(ひめみこのかみ)     三の宮の妃
 五の宮:彦御子神(ひこみこのかみ)      一の宮の御孫、国造速瓶玉命の第一の御子
 六の宮:若比咩神(わかひめのかみ)      五の宮の妃
 七の宮:新彦神(にいひこのかみ)       三の宮の第一子
 八の宮:新比咩神(にいひめのかみ)      七の宮の娘神
 九の宮:若彦神(わかひこのかみ)       七の宮の御子
 十の宮:弥比咩神(やひめのかみ)       七の宮の妃
十一の宮:国造速瓶玉命(はやみかたまのみこと) 一の宮の第一子、本宮は国造神社北宮
十二の宮:金凝神(かなこりのかみ)       神武天皇の御子、綏靖天皇(第二代天皇)
(配祀)延喜式内社三一三二神


相関図
     +-⑫金凝神
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神武天皇-+-神八井耳命----①健磐龍命
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     +-③国龍神        +-⑪国造速瓶玉命-⑤彦御子神        
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         +ーーーー+-②阿蘇都比咩命        |
         |    |              ⑥若比咩神
       ④比咩御子神 +-⑦新彦神
                  |   +-⑧新比咩神
                  +---+
                  |   +-⑨若彦神 
                ⑩弥比咩神

御由緒 由緒略記
 御主神健磐龍命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。
後に命は、紀元七十六年春二月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比咩命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。
 当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(七月二十八日の御田祭神事の起り)。また歳ノ神を祭り(三月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
 業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(九月二十五日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した※
 祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。
是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ十一世紀以降肥後一の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。
 国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
 第七代孝霊天皇の九年六月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成三年より二、二七三年前であり、第十二代景行天皇の十八年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。
 これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。

皇室、国家の尊崇
 第五十三代淳和天皇(弘仁十四年)、従四位下勲五等に叙し健磐龍命に封二千戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正二位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年一代一度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く肥後の国の一の宮とせられた。
 爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが 、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正十五年三百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。
 後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。
明治四年五月国幣中社、明治二十三年四月官幣中社に、大正三年一月官幣大社に列せられた。

社殿
 社殿の配置結構は皇居の制に準い、旦つ三十三年毎に肥後の棟別に賦課して改築せらるゝを例としていた。
神殿は最も古くは十二殿、下っては六殿、更に三殿と時代と倶に変遷しているが、現今の神殿は天保六年斧初め、同十一年一の本殿、同十二年二の本殿、同十三年別殿、嘉永二年神幸・還御両門及び樓門と竣工したが何れも藩主細川氏の建立によるものである。
 拝殿、祝詞殿、翼廊、神饌所、神輿庫等は昭和十六年以降の政府事業及び造営奉賛会の造営計画により昭和二十三年に竣工した。
尚、三神殿、拝殿、翼廊、神饌所、神輿庫及び樓門、神幸・還御両門の御屋根銅版葺替工事、並びに廻廊、透塀の復元工事を昭和四十九年に完工した。
 本殿、樓門等の構造は特例の阿蘇式であって、一・二の本殿は千鳥破風の曲線美妻は入母屋、千木外そぎ八本の鰹木を据え何れも欅材の白木造り樓門は二層樓の山門式、同時代最優秀の彫刻美を誇っている。

阿蘇大神神幸分布
 阿蘇神社及び阿蘇大宮司家は往古より肥後国の精神的中心であったが、同時に肥後国及び豊後国の一部の事実上の支配者であった。
阿蘇大神信仰の発展を知るうえには各地各所の同神神社を知ることが適切と思われるが多数に及ぶので列記しがたいが肥後熊本県内だけでも四百社に達する。
以上
 (平成祭データ)
参拝月日  11/04/2006

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                南の鳥居                                    楼門