壱岐國一の宮「式内社」
天手長男
(あまのたながお)
神社
鎮座地
〒811-5117 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730 旧壱岐国 石田郡
電話
0920-47-5748
旧社格等
式内社 壹岐嶋石田郡 天手長男神社 名神大
壱岐國一宮
旧村社
御祭神
・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
・天宇豆女命
・天手力男命
御由緒
壱岐国一の宮
天手長男神社(あまのたながお)式内社(名神大)
祭神
正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
天手力男命(あまのたじからおのみこと)
*式内社とは、延喜五年(905)の「延喜式」(当時の法律を記したもの))の
神名帳に記載されている神社のことで、全国に3,132座ある。
また、名神大社、略して名神大とは、「延喜式」に定められている社格のことである。
なお、昭和40年(1965)五月から、左記の五社が合祀されることになった。
天手長男神社 式内社(名神大)
天手長比売神社(あまのたながひめ)式内社(名神大)
物部布都神社(ものべふつ)式内社(名神大)
若宮神社(わかみや)
宝満神社(ほうまん)
さらに安産の神として有名な粟島神社(あわしま)も奉祀されている。
平成十二年十月
*祭神について
天忍穂耳尊
日本神話で、天照大神と素戔嗚尊の誓約(神意をうかがう所作業)の際に生まれた神。
その子は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。
天鈿女命
日本神話で、天岩屋戸の前で踊って天照大神を慰め、天孫降臨に随従した女神。
天手力男命
天岩屋戸を開いて天照大神を出したという大力の神。天孫降臨に従う。
(参道入口の案内板より)
社名の由来
『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これ上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(宗像の沖ノ島)に立てたという。天手長男・天手長比賣の社名はこの「御手長」に由来するという。
歴史
天手長男神社は壱岐国の宗廟・一宮とされ崇敬を受けていたが、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。
現在の天手長男神社は、それまで「若宮」と呼ばれていた式外社の小祠を、江戸時代の平戸藩の国学者・橘三喜が名神大社・天手長男神社に比定したものである。三喜は、「たながお(たなかを)」という社名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を堀り出し、石社を作って祀った。松浦藩主の命により元禄元年(1688年)に社殿が作られた。
なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている(橘三喜は興神社を式内小社「與神社」に比定しているが、これは興と與を見誤ったためと見られる)。
合祀されている天手長比賣神社も橘三喜の査定によるものであり、本来の天手長比賣神社の所在地は不明である。物部布都神社も、「田中触が物部村に属しているから」という理由で比定されたものであり、近年の研究では渡良浦の國津神社が本来の物部布都神社であったとされている
(ウィキペディア フリー百科事典より)
参拝月日
11/11/2006
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一の鳥居 拝殿