御由緒 |
當社は仁和三年肝等庄(伊方の舊称)司某なるもの宇佐八幡大神の神託を蒙り、宇佐宮より勧請す。
其の概要は仁和三年八月放生会の日庄司某幼児袈裟丸を携へ、宇佐宮に詣でけるに八幡大神袈裟丸に神憑りあらせられ託して曰く、神吾禮昔隼人征伐乃砌応男人催促肝等庄乃射手等悉出従神軍其中仁者多遂戦死者佐倍有天吾礼甚憐之因為其子孫移住乃件庄志而永欲為其守護神者庄司承此神託感泣不能措創立神祠干赤坂山而庄内一社奉崇弓矢八幡宮矣。
本文は宇佐大宮司職到津家所蔵古文中より抜粋。斯かる神縁にて当庄民は例年宇佐宮神役に加わりつつありし事宇佐宮造営日記あり。
其れかあらぬか元和三年宇佐宮御神輿と共に当社御神輿を奉し、上野村弓削田村香春村各社に御神幸奉仕せしことあり。
以上 (平成祭データ)
赤坂八幡社 由来
誉田別尊(ホンダワケノミコト)
祭神 足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト)
息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)
由緒
当社は仁和三年(西暦887年)肝等庄(カトノショウ)(伊方の旧称)の荘司(荘園の役人)が八月放生会の日に袈沙丸という幼児を伴って宇佐八幡宮に参詣いたおり袈沙丸に八幡宮の神の神託(おつげ)があった。
その託宣には昔隼人征伐のおり国司よりの従軍の要請により人々此に応じて従軍した。此の中には多くの戦死者もあった。大神神慮(ミココロ)を痛められこれを哀しまれて此の伊方の守護神となられることを望まれた。
此の神託に荘司いたくその神恩に感謝申しあげて神祠を赤坂山に造営して宇佐八幡宮の神を勧請し崇め奉った。
このような神縁によって伊方荘の人々は例年宇佐八幡宮の神役に加わっていた事など宇佐宮造営日記に記録されている。
(境内入口の案内板より) |