普天間宮(ふてんまぐう) HOME blog

鎮座地 〒901-2202 沖縄県宜野湾市普天間1-27-10 旧琉球国 沖縄郡  
電話  098-892-3344
旧社格等  無格社 琉球八社
御祭神  ・伊弉冉尊 ・速玉男命 ・事解男命 ・天照大御神 ・家都御子神
 ・日の神 ・竜宮神 ・普天間女神 ・琉球古神道神
御由緒  普 天 満 宮 略記
鎮座地
 沖縄県宜野湾市普天間一丁目二七番一〇号
御祭神
 一、熊野権現
    伊井再尊 いざなみのみこと
    速玉男命 はやたまをのみこと
    事解男命 ことさかをのみこと
      
    天照大御神 あまてらすおほみかみ
    家都御子神 けつみこのかみ

 二、琉球古神道神
   日の神
   竜宮神(ニライカナイ神)
   普天満女神 (グジー神)
   天神・地神・海神
御由緒
 当宮は別称普天満権現、琉球八社の一つである。創建については往昔、普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃(一四五〇~六〇年)熊野権現を合祀したと伝えられている。
現存する古い記録には『普天満権現』碑(一五九〇年)がある。『琉球神道記』(一六〇五年) 『琉球国由来記』(一七一三年)『琉球国旧記』(一七三一年) にも当宮関係が記載されている。前記の琉球神道記には 「當國大社七處アリ六處ハ倭ノ熊野権現ナリ一處ハ八幡大菩薩也」叉「普天間権現の事」については「濫觴亦知ラス、熊野ノ飛瀧ト見ユ、東ニ當リテ瀑布アリ、其水霊也……」と、祭神のことが記されている。尚、普天満宮は熊野那智(飛瀧)に末吉宮を熊野新宮に、識名宮を熊野本宮に見立てて信仰されていたようである。
 さらに、近世沖縄における熊野三山いわゆる権現信仰は琉球八社の内の七社はもとより、その分社、あるいはビジュル・観音・霊石信仰とも習合しながら県内広域に伝播し、拝所としても数多く存在する。
 当宮の縁起伝承には首里桃原に女神が出現され、後に普天満の洞窟に籠られた伝承。さらにその後、洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と御神威弥高に示された。叉、中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の「当ノ屋(屋号)」に黄金(神徳)を授け苦難をすくつたという伝承があり、「当ノ屋」 ではそのお礼参りが続いている。旧暦九月は普天満参詣と言って、かつては中山王はじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げた。
 昭和二〇年、戦時中は当時の社掌が御神体を奉持して糸満へ避難した。戦後は、社掌の出身地である具志川村(現うるま市)田場に仮宮を造りて祀り、その後、普天間の境内地が米軍より解放されると、昭和二四年二月、元の本殿に還座した。さらに、昭和二八年よりハワイの県人会を始め県内外からの浄財により戦後の復興(本殿・社務所)が始まった。
 昭和四十三年十二月三十日、洞穴の手前に本殿が竣工。昭和四十七年五月十五日、本土復帰に伴い宗教法人格を取得すると同時に、神社本庁と被包括関係を結ぶ。同年、祖霊社・儀式殿・神楽殿兼参集殿の造営が竣工した。
 平成十六年、旧社殿は老朽化また白蟻の被害に伴い、境内地と周辺環境も考慮して総合的な御社殿造営計画を以て、本殿・拝殿・儀式殿・参集殿が平成十七年四月二十二日に、社務所が平成十九年十一月十九日に竣工した。

御神徳
 御神威は古今を通して高く、叉沖縄県中部最大の聖地として参詣者も多い。当宮は、縁起に示されるように、航海安全、豊漁、五穀豊穣の神様として、叉身近には、交通安全、縁結び、安産、初宮参り、近年は建築関係諸祈願、商売繁盛、学業成就祈願など、結び (諸願成就) の神様として信仰されている。

普天満宮洞穴(市指定文化財「名勝」)
 洞穴は、全長二八〇メートル、洞口が二ヶ所、大きな広場が三ヶ所あり、過去の水流の痕跡を示す洞穴ノッチも見られる。洞穴の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものである。洞窟内及び東洞口付近は遺跡となっており沖縄貝塚時代前期後半以後(約三千年前)の遺物が多数発掘されている。叉、約二万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石も発見され「普天満宮洞穴」は平成三年八月一日付で、宜野湾市文化財「名勝」に指定される。

普天満女神の由来
 昔、首里の桃原というところに、世にも美しいひとりの乙女が住んでいた。優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となって首里はもとより、島の津々浦々まで噂となっていた。しかし不思議なことに誰ひとりその乙女を見た人はいなかった。いつも家にこもりきりで機織りにせいをだし、外出もせず他人には決してその美しい顔を見せなかった。神秘的な噂に憧れて、村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていた。
 ある夕方、乙女は少し疲れてまどろむうち、夢とも現ともなく荒波にもまれた父と兄が、目の前で溺れそうになっている情景がありありと見えた。数日前、父と兄や船子たちを乗せた船は、大勢の人に見送られ出帆していったのだった。乙女は驚いて父と兄を必死で助けようとしたが、片手で兄を抱き、父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母にわが名を呼ばれてハッと我に返った乙女は、父を掴んでいた手を思わず放してしまった。幾日か過ぎて、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還したが、父はとうとう還ってこなかった。
 乙女の妹は既に嫁いでいたが、ある日、夫が「お前の姉様は大そう美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから他人ではない。一目でいいからぜひ会わせてくれないか。」と頼みました。しばらく考えた妹は「姉はきっと会うのを断わるでしょう。でも方法がひとつあります。私が姉様の部屋にいってあ、いさつをしますから、そのとき何気なぐ覗きなさい。決して中に入ってはいけませんよ。」と答えた。
 乙女はいつものように機織りの支度をしていたが、その美しい顔に何となく愁いが見える。神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが、乙女の心の糸車に幾重にも巻きついて放れなかった。旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日であった。
「姉様しばらくでございます!」
妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけた。その途端に乙女は逃げるように家をとびだし、末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天満の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草(オオバコ) になってなびき伏した。乙女は次第に清らかな神々しい姿に変わり、普天満の鍾乳洞に吸い込まれるように入って行った。
 そして、もう再び乙女の姿を見た人はなく、現身の姿を消した乙女は、普天満宮の永遠の女神となられたのである。

普天満宮仙人の由来
 昔、中城間切安谷屋村に夫婦が住んでいた。貧乏ではあったが夫婦は大変仲が良く、真面目に生活していた。ある年の事、作物が取れず年貢も納めることが出来なかった。そこで夫婦は相談をし、妻は首里の殿内奉公に行くことになった。ときどき髪を切って髪として売り、供えの品を買って、毎夜普天満へ行きお祈りすること三、四年、風の日も雨の日も一日も欠かさず通った。
 九月のある夜、いつものように夜道を普天満へ行き、鳥居に近づくとひょっこり一人の老人に会った。老人は 「大切な品を持っているが用を足して来る間、ちょっと預かってはくれないか。」と話しかけてきた。再三言葉を尽くして断わったが、老人はその品を押し付けて何処へか立ち去ってしまった。やむを得ず、預けられた品を守っていたが、老人はいくら待っても戻ってこない。ついに待ちきれなくなって品物を持ったまま首里に帰った。
 その後も品物を返さねばと思い老人に会った場所へやって来るが、どうしたものか一度も姿を見せなかった。妻は、その老人に会わせてくれるようにと祈り始め、ある晩夢にその老人が現れて「吾は熊野権現なり、汝等は善にしてその品を授けるものなり。」と、毎晩同じ夢を見るので不思議に思い、その包みを開けてみると、まばゆい程の黄金が入っていた。夫婦は驚き、神の恵みに深く感謝して御恩返しに石の厨子を造り石像三体(権現)を安置した。
 その家は富貴となり、この事は秘していたが、いつしか知れ渡り、以来人々から広く信仰されるようになった。
   (神社パンフレット「普天満宮略記」より抜粋)

 普天間宮
宜野湾市普天間鎮座、祭神、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命、天照大御神、家都御子神(日の神、竜宮神、普天満女神、他)例大祭、旧九月十五日
由緒
 当宮は別称普天満権現ともいい、琉球八社の一つである。創建については往昔、普天間の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃(一四五〇~六〇年)熊野権現を合祀したと伝えられている。現存する古い記録には「普天満権現」碑(一五九〇年)がある。琉球神道記(一六〇五年)琉球国由来記(一七一三年)琉球国旧記(一七三一年)にも当宮関係が記載されている。縁起伝承には首里桃原に女神が出現されて後に普天間の洞窟に篭られ、さらにその後、洞窟より仙人が現れて「我は熊野権現なり」と御神威弥高に示された。御神徳については中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の屋号「当ノ屋」に黄金(神徳)を授け苦難をすくった。「当ノ屋」ではそのお礼参りが三百年余、現在まで続いている。尚、船舶の安全、大漁、五穀豊穣、交通安全、会社隆昌、商売繁盛、縁結び、安産、初宮参り、学業成就等など結びの神様(諸願成就)として当宮は参詣者も多く、特に旧暦九月は普天満参詣と言って、かつては中山王はじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げた。昭和十九年に県社昇格の予定になっていたが、戦時の混乱により立消えとなった。戦前の沖縄県神社明細帳には「社格特別由緒有神社」と特記されている。現在の社殿は戦後、県内外からの浄財により随時復興した。参道沿いにあった宜野湾並松(昭和七年国指定天然記念物)は戦災と戦後の松食い虫の被害を受け消失した。洞窟内及び東洞口付近は遺跡となっており沖縄貝塚時代前期後半以後の遺物が多数発掘されている。尚、二万年前の鹿、イノシシの化石なども発見されている。平成三年八月一日付で、「普天間宮洞穴」、宜野湾市天然記念物指定。
 (平成祭データ)
参拝月日  06/24/2013

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境内入口の鳥居 拝殿