靖國神社(やすくに) HOME blog

鎮座地 〒102-0073 東京都千代田区九段北3丁目1-1 旧武蔵国 豊島郡   
電話  03-3261-8326
旧社格等 別格官幣社 単立神社
御祭神  ・靖國の神
御由緒 由 緒
 靖國神社の起源は、明治二年(一八六九)六月二十九日に建てられた東京招魂社に遡ります。当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にあり、そうした大変革は一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同志の尊い命が失われる結果となりました。そこで明治天皇は、国家のために一命を捧げられたこれら人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと、東京九段のこの地に「招魂社」を創建されたのです。東京招魂社はその後、明治十二年(一八七九)六月四日に 「靖國神社」と改称されて、現在に至っています。
創建の理念
 靖國神社創建の目的は、明治七年(一八七四)一月二十七日、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折、お詠みになられた「我が國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知られるように、世の平安を願い国家のために一命を捧げられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えることにあります。明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」(典拠は『春秋左氏伝』巻第六僖公中)という意味で、靖國神社には
「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
御祭神
 靖國神社には、幕末の嘉永六年(一八五三)以降、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた二百四十六万六千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖國の大神)として斉しくお祀りされています。
 その中には軍人ばかりでなく、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達をはじめ、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒などの軍属、文官、民間の方々も数多く含まれています。また、その当時、日本人として戦い亡くなられた台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も同様に祀られています。このように多種多様な方々の神霊が、祖国に殉じられた尊い神霊として一律平等に祀られているのは、靖国神社創建の目的が、「国家のために一命を捧げられたこれら人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える」ことにあるからです。
今月の遺書
 靖國神社では、多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、英霊の遺書や書簡毎月、社頭に掲示しています。
 社頭にこれまで掲示した遺書や書簡は、『英霊の言乃菓』に纏めて刊行、頒布しています。
  (神社パンフレット「靖國神社 参拝のしおり」より)

靖國神社の概要
 靖國神社は、我が国が幕府政治体制から近代国家体制に大きく生まれ変わろうとする時に、不幸にして避けられなかった明治維新の内戦(戊辰戦役)において、国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと、明治二年(一八六九)六月、明治天皇が「東京招魂社」として現在の位置に建てられたのが起源で、同十二年(一八七九)には、「靖國神社」と改称されて今日に至っている御社です。
 明治天皇が命名された、この「やすくに」という御社号には、「国を平安(安の字は靖に通ずる字)にし、平和な国をつくり上げる」という御心がこめられ、祀られている神々も、すべてこの天皇の御心のように、祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ、日本民族を守るために掛け替えのない尊い生命を国に捧げられた同胞たちで、これらの方々は、身分・職業・年齢・性別等にかかわりなく手厚く祀られています。明治二年(一八六九)六月に、戊辰戦役で戦死された三千五百余柱の方々をお祀りしたのを初めとし、その後に起こった「佐賀の乱」・「西南の役」・「日清戦役」・「日露戦役」・「第一次世界大戦」・「満州事変」・「支那事変」・「大東亜戦争」等の事変・戦役で戦死された方々、さらに嘉永六年(一八五三年、いわゆる黒船が浦賀沖に来航した年)以来明治改元までの十五年間の幕末多難時代に、「安政の大獄」や「禁門の変」等による犠牲者を始め、国事に盡してたおれられた方々(吉田寅次郎(松陰)・橋本左内・坂本龍馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎等々、歴史上に著名ないわゆる幕末の志士、並びに平田捨四郎・仁位馬寿ら生後六ヶ月の無名の志士家族ら数千柱の方々)をも明治二十年(一八八七)ごろから合せ祀り、現在の御祭神総数は二百四十六萬余柱に及んでいます。
 靖國神社というと、戦死した軍人ばかりを祀っている神社のように思われがちですが、決してそうではなく、五萬七千余柱の女性の御祭神も含まれ、これらの中には、従軍看護婦を始め、主婦、小・中学校の児童・生徒、それに二歳にも満たぬ童女さえも含まれています。
 一、二の具体例をあげますと、幕末時代のことですが、元治元年(一八六四)、常陸国(現在の茨城県下)水戸藩で起こった事件で死歿した田原彦三郎道綱という侍の妻多加(三十五歳)とその長女千代(十七歳)、二女喜代(二歳)は、連帯者として幕府の手に捕えられ、獄中でたおれたため、明治二十四年に合祀されました。
また、沖縄で戦歿した「ひめゆり」・「白梅」等の七女学校部隊の女生徒の方々、「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中、悲惨にも敵潜水艦によって撃沈されて、幼い生命を断たれた小学校女子児童たち、大東亜戦争終結直後の昭和二十年八月二十日、ソ連の不法侵攻を最後の最後まで内地に通話し続けて、ついに自決殉職された樺太(現在のサハリン)真岡の女子電話交換手の方々らも皆、昭和三十年代から四十年代にかけて合祀された女性御祭神の方たちです。さらにまた、大東亜戦争終結時に責任を負って自決された方々、いわゆる戦争犯罪人として連合国側によって一方的に処刑された千余名の方々(当神社においては、これらの方々を「昭和殉難者」と呼称しています)、民間防空組織の責任者として敵機の空襲下に活躍中爆死された方々、学徒動員中に軍需工場等で爆死された学徒らも皆、御祭神としてお祀り申し上げております。
 このように靖國神社には、戦場で戦死された軍人、軍属ばかりでなく、文官、民間の方、女性をも含めた多種多様の御祭神が祀られており、日本国民だれしもが崇敬し、奉賛するに相応しい御社なのです。
なお、御本殿に向かって左側回廊の外側に、元宮と鎮霊社という二つの小さな御社があって、元宮というのは、文久三年(一八六三)、幕末の国事にたおれた志士の霊を慰めようと、京都において少数の有志が幕府の目をはばかって、ひそかに建てた小祠が元で、改築等幾多の経過を経て七十年後の昭和六年、靖國神社に奉納され、招魂社の元をなすともいうべきものとして、元宮と称して今日に至っています。
鎮霊社(昭和四十年七月創建)には、靖國神社に合祀されていない方々の御霊と、国籍を問わず、萬国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られています。
右二社は、御本殿の神々と同様、日々宮司始め神社職員によって奉仕されています。神社として一番重要な祭典は春秋の例大祭と合祀祭です。「春季例大祭」は、毎年四月二十一日から二十三日まで、「秋季例大祭」は、十月十七日から十九日までのそれぞれ三日間にわたって執り行われ、これらの祭典には勅使(天皇の御使者)が差しつかわされ、皇族方も親しくご参拝になります。
 また、神社ご創立以来、天皇・皇后両陛下のご参拝も度々行われ、明治時代に十一回、大正時代に五回、昭和になってからは実に五十四回の行幸啓をあおいでいます。「みたま祭」は、昔から我々日本国民の多くが先祖の祭をする、いわゆる「お盆」にあたる七月十三日から十六日までの四日間執り行われ、奉納された各界名士の揮毫ボンボリ、御遺族・戦友・崇敬者らから奉納された提灯が参道を埋めつくし、年間一番多くの参詣者をお迎えする夏祭ともいうべきものです。
 この外神社としては、新年祭、建国記念祭、御創立記念日祭、明治祭、天皇御誕辰奉祝祭、月次祭(毎月一日、十一日、二十一日)、さらに毎日の朝夕の御饌祭、永代神楽祭、御遺族・戦友による慰霊祭、昇殿参拝等をご奉仕申し上げ、永代神楽祭では、お申込みの御遺族等のご参列を求め、毎年永代にわたり御祭神のお名前を申し上げ、御神楽を奉奏して神霊をお慰めいたしております。
 遊就館とその周辺は、神社参拝後必ず立ち寄らるべき聖域で、館内には御祭神方の魂魄のこもった御遺書・御遺品等が展示され、館外にも、これまた御祭神方が愛撫駆使された火砲・機関車・魚雷等が展示され、参拝で浄化された参詣者の心は、さらに一段と浄化感応されることと思います。
 以上が靖國神社の創建とその性格、御祭神並びに祭典についての概要です。
今日の我が国の安泰と繁栄が、靖國神社の御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたということに思いをはせて、子々孫々に至るまで、この御社を護持していただきたいと願う次第であります。
(平成祭データ)
参拝月日  09/19/2012

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一の鳥居 拝殿