| 御由緒 |
都都古和氣神社栞
延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社で、凡そ一千九百余年まえ人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事が立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)
人皇五十一代平城天皇大同二年(八○七年)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾)に奉遷、社殿奉造し日本武尊を相殿に配祀し奉る。
寛永元年(一六二四年)丹羽五郎左衛門長重、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更に社領を添加し旧社殿を解体、移築の上同二年遷宮し奉る。
神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・御冷泉天皇等各御宇に行なわれている。造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は、文禄年間(一五九二~一五九五)秀吉の命により、佐竹義宣の奉造にかかるもので、桃山時代の手法がよく出ている。
中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造営せられている。
当神社は、平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象であった。北郷二十四ヶ村に亘った神領地も其の一証である。
徳川幕府は、代々先規により神領朱印状を奉っていた。
明治四年太政官達し、同六年三月七日、国幣中社に列格。
以上 (平成祭りデータ
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