御由緒 |
御由緒の概略
神社名 小國神社(おくにじんじゃ)
鎮座地 静岡県周智郡森町一宮三九五六番地の一
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
御神徳
須佐之男命の御子にして、父神の命により豊葦原の国を開発し稲穂の稔る瑞穂の国に造り上げ、天孫に国土を奉った大功を称えて大国主命(おおくにぬしのみこと)、国作之大神(くにつくりのおおかみ)、大穴牟遅神(おおなむじのかみ)と称える。また、農業・山林・鉱業・縁結び・医薬禁厭の法を授け給う徳を称えて大物主神(おおものぬしのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)と称える。また、難難辛苦の修養を積まれ統治者となられ、国中の悪神を平定せられた質実剛健と勇気を称えて葦原醜男命(あしはらのしこおのみこと)、八千矛命(やちほこのみこと)と申し、尊貴を称えて大己貴命(おおなむちのみこと)と申す。国土開発・福徳・縁結び・山林・農業・医薬・知徳剛健等の守護神と敬われ、御神徳は極めて高い (古事記・日本書紀等)。
当社を小国神社と申すのは、出雲の大本宮に対する遠江国地方の呼称であり、古来より許当麻知(ことまち)神社 (願い事を待つ意)、事任(ことのまま)神社 (願い事のままに叶う意) とも称されてきた。
御由来
創祀は神代と伝えられ、上代の事で詳でないが延宝八年(一六八〇)の社記によれば、人皇第二十九代欽明天皇の御代十六年(五五五)二月十八日に本宮峯(本宮山)に御神霊が出現し鎮斎せられた。後、山麓約六キロメートルの現在地に都より勅使が差遣せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた(社記)。
爾来、年々奉幣に預かり、文武天皇大宝元年(七〇一)二月十八日に勅使奉幣し、特に十二段の舞楽を奉奏せられた (社記)。仁明天皇承和七年(八四〇)六月二十四日従五位下の神階を授けられ(続日本後記)、清和天皇貞観二年(八六〇)正月二十七日には従四位下(日本三代実録)、同十六年(八七四)二月二十三日には従四位上を加えられ(日本三代実録)、第六十代醍醐天皇の延喜七年(九〇七)に勅して社殿を改造せしめられ(社記)、延喜式内社に列せられた(延喜式)。下って第九十六代後醍醐天皇の元弘・建武の変以来、勅使参向が絶え、神主が代わって其の式を行い、戦乱が相次ぐ室町時代に至っても神事祭礼を欠くことなく勤仕し、朝野の崇敬が極めて篤く、近世に至る (社記)。
元亀三年(一五七二)徳川氏の目代武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社に叛いた時、神主小國豊前重勝は霊夢に感じ、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。家康公は神主に命じて御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、戦捷を祈願した後に、社頭に火を放ち全部の社殿を焼失した。その後、徳川方が勝を得て、天正三年(一五七五)家康公は家臣本多重次に命じて、先ず本社を造営、遷宮させ、次いで同十一年(一五八三) 十二月七日天下平定の報賽として末社・拝殿・廻廊を造営、同十三年 (一五八五) 楼門を再建させた。慶長八年(一六〇三) 八月二十八日家康公は更に社領として五百九十石の朱印を奉り、その後、元禄十年(一六九七)には将軍綱吉公が横須賀城主西尾隠岐守に命じて悉く社殿の改造をし、寛保元年(一七四一) 将軍吉宗公より四百両の修復料を寄進された。
明治六年六月十三日に至って、国幣小社に列せられ、明治十五年三月八日再度の火災に遇い、本殿以下悉く失ってしまった。官命により再建の事となり、明治十九年に完成、九月二十五日遷座祭を執行する。終戦後は昔な
がらに遠江國一宮として崇敬され現在に至っている(社記・徳川実紀)。
また、平成十五年九月十四日、秋篠宮文仁親王殿下同妃紀子殿下には、御親拝及び十二段舞楽を御覧になられ、平成十八年十一月八日には、神宮祭主池田厚子様が御参拝され、記念に菊桜を御手植えされた。
(神社パンフレット「遠江國一宮小國神社 略記」より抜粋) |