御由緒 |
陸中一宮 駒形神社
御由緒
上古の代、関東に毛野一族が台頭し、赤城山を霊山と崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配し、後に上毛野国と下毛野国に分れた。上毛野・下毛野氏は、関東に留まらず、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀された。奥州の当地方にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。上毛野胆沢公という毛野氏の一族によるものであり、時は雄略天皇の御代(四五六年)であった。
当社は貞観四年(八六二年)従四位下に神階を進められたのは、陸奥国胆沢城を創建し征夷大将軍として蝦夷地を平定した坂上田村麻呂による崇敬の念の篤かったことから始まり、この鎮守府の度々の上奏によるものであった。
駒形という名称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌が残っている。コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高句麗に都があり、高麗朝時代であり、文化伝来のあこがれの国でもあったので、コマということばを用い世間に誇示した。箱根山縁起に箱根神社が駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。このように赤城の神は駒形の神とも言える。
坂上田村麻呂や源頼義・頼家父子も駒形大神を厚く崇敬し、武運祈願成就した事実を知り、この奥州に栄華を築いた藤原氏四代も駒形神社に崇敬の念を捧げた。平泉より北上川を隔て、東に望む秀峰束稲山は駒形山とも言う。このことは峻険な駒ケ岳を度々登拝することは困難を来たすこともあり、この山に駒形大神を奉祀したと考えられる。かくして駒形神社の崇敬は華々しく、分社は東北各県より関東に亘り、その数、百余社に及んでいる。
御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天常立尊(あめのとこたちのみこと)
駒形大神 国狭立尊(くにのさたちのみこと)
吾勝尊(あかつのみこと)
置瀬尊(おきせのみこと)
彦火尊(ひこほのみこと)
御利益
産業開発、交通安全、必勝祈願、方位除け、家内安全
別宮 鹽竃神社
後冷泉天皇の御代(一〇五二年)源頼義・義家父子が安倍貞任を征伐しようとし、宮城県塩釜市の鹽竃神社に祈願し成就したので凱旋の後、水沢の地(現在の石田・大明神)に鹽竃大神を勧請した。以来、当地方は塩釜村といわれ、また水沢市制(昭和二八年)の施行まで大字名に塩釜が残された。
寛永六年(一六二九年)初代水沢城主留守宗利氏が当社を大修繕した。明和二年(一七六三年)第七代城主留守村義氏は石田・大明神の地より現在地に遷座して境内を整備し、領内の守護神と崇め、別当及び社家をおき祭祀にあたらせ当地方の一大名社とし、信仰をあつめた。
安政六年(一八五九年)の大火により、全町ことごとく焦土と化し、社殿も類焼したため、文久三年(一八六三年)第十一代城主留守邦命氏が再興した。ことに本殿は戸阿内村の大工熊谷萬吉氏が上衣川村にあった直径七.八メートルの欅の巨木一本で仕上げた。今も駒形神社本殿として現存している。
明治三六年、鹽竃大神は別宮春日神社に合祀し、鹽竃神社とし、駒ヶ岳山頂より御神霊を鹽竃神社に奉遷し駒形神社とした。
御祭神
鹽土老翁神(しおつちのおじのかみ)
鹽竃大神 武甕槌神(たけみかつちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
天児屋根神(あめのこやねのかみ)
相殿 比賣神(ひめのかみ)
藤原鎌足朝臣(ふじわらかまたりのあそん)
ご利益
武芸上達、成績向上、受験合格
沿革
年号 西暦 経 歴
雄略天皇の御代 456年 上毛野胆沢公、駒ヶ岳山頂に駒形大神を勧請。
仁寿 元年 850年 文徳天皇の御代、駒形大神正五位の神階に昇る。
貞観 6年 862年 清和天皇の御代、駒形大神.従四位下(奥州最高の神階)に昇格。
天喜 5年 1057年 後冷泉天皇の御代、源頼義、義家父子石田の地に塩釜大神勧請。
寛永 6年 1629年 初代水沢城主留守宗利氏、塩釜神社を御造営。
明和 2年 1663年 7代水沢城主留守村義氏、塩釜神社、現在地に遷座。
安政 6年 1859年 町内全焼による大火事により、愛宕社塩釜神社も類焼。
文久 3年 1863年 日代水沢城主留守邦命氏、塩釜神社を再興。(現在の駒形神社本殿)
明治 4年 1871年 駒形神社、国幣小社になる。塩釜神社は駒形神社の仮遥拝所となる。
明治 7年 1874年 塩釜神社は社殿大改修され、駒形神社の正式遥拝所になる。
明治 36年 1903年 駒ヶ岳山頂より御神霊を塩釜神社へ奉遷。塩釜神社は別宮春日社に合祀。
昭和 8年 1933年 奉遷30周年記念事業として御社殿御造営、並びに境内整備された。
平成 15年 2003年 奉遷100周年記念事業として御社殿御造営された。
(駒形神社パンフレット[参拝のしおり]より)
参拝のしおり
御鎮座地
本社 岩手県水沢市中上野町一
奥宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ヶ岳
御祭神
駒形大神
文徳天皇仁寿元年正五位
清和天皇貞観四年従四位下(奥州最高の神階也)
延喜の制により小社と列せられる
奥宮について
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられたというのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。
近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、三坪三分五厘、宝玉造で東北にむかっている。この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚かったから、神祠は両氏の公費営繕で二十年ごとに改造されるというのが例であった。
本社について
当社の社地はもと塩釜神社の鎮定地であったが、明治四年五月十四日国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもできかねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。さらに明治三十六年、神霊を山頂より遷座、塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した。
本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永六年に建立したものであるが、安政六年火災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久三年再興したものである。なかでも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべて作られた、三間社流造である。
さらに現社殿は、昭和八年奉遷三十周年を記念し総工費六万二千六百円(内務省補助三万二千六百円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふさわしい神社となったものである。
里宮について
里宮は駒ヶ岳の山麓およそ十二Kへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境外末社として位置づけられていたが現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。
奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であるため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
旧南部領岩崎にも里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。
(平成祭データ)
奥宮ご造営趣意書
駒形神社は雄略天皇の御代、奥羽山脈の名峰「駒ヶ岳」の山頂に勧請され、「延喜式神名帳」に記載きれている奥州最高位の神階を有する名社であります。
明治維新以後、「陸中の国一の宮」「国幣小社」となり、明治三十六年には御神霊を駒ヶ岳山項より現鎮座地に奉遷申し上げました。現在に至るまで産業開発、交通安全、必勝祈願、方位除け、家内安全など広大無辺の御神徳を垂れ給う神様として県内はもとより全国各地から敬迎されております。
駒ヶ岳(奥羽山脈金ヶ崎町一、一二九m)山頂の御社(奥宮)は、昭和三十六年プロック造りとして建立されましたが、山頂という厳しい気象状況の中、五十年余りの歳月を経て、風雪による傷みも著しく朽ちてきましたし、平成二十年六月十四日岩手宮城内陸地震と平成二十年七月二十四日の岩手北部地震と二度に亘る地震に遭い、大きな災害を受け、倒壊の恐れも出て参りました。
平成二十一年、今年は天応陛下御即位二十年、天皇皇后両陛下御結婚五十年をお迎えになるこの年を佳節と記念し、崇敬者の宿願でありました奥宮のご造営に取りかかることに致しました。
叉、駒ヶ岳山頂の奥宮は旧伊達・南部両藩の藩境線の起点とされ、藩政時代には両藩の地域住民数百人が資材を山頂まで運び上げるなどして、約二十年毎のご造営が維持されてきたという経緯があります。此度の奥宮ご造営は、藩政時代に習い木造とし、資材をすべて人力にて頂上まで運び上げる手法をとります。
北上和賀鎮座の駒形神社里宮と金ヶ崎西根鎮座の駒形神社里宮と協力しあい、又、地域住民の力を結集するという古来のかたちで、平成二十二年八月の竣工を予定しておリます。
つきましては、日頃より敬神の誠を尽くしてこられました崇敬者各位のご理解とご協力をいただき、物心両面のご奉賛を賜りますようお願い申し上げます。
平成二十一年八月吉日
(境内掲示板より) |