御由緒 |
式内名神大社
下野国一之宮 宇都宮二荒山神社御由緒
御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相 殿 大物主命(おおものぬしのみこと)(大国さま)
事代主命(ことしろぬしのみこと)(恵比寿さま)
主祭神・豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神大物主命 事代主命を祀られました。その後承和五年(八三八)に現在地臼ヶ峰に還座されました。
以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。
(社頭由緒掲示板より)
神社の起源
二荒山(ふたあらやま)神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代にさかのぼることができる神社です。
当社は何度も火災にあい、近年に入ってからも天正十三年、安永二年、天保三年、更に明治維新の戊辰の役と四度もあって古い歴史のほとんどが消失しています。
現在残っている社記には、第十六代仁徳天皇の御代(今から約一六〇〇年前) に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入人彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられます。この時祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮) に祀ったのが始まりで、その後承和五年(八三八)に現在の地臼ケ峰に遷されたと伝えられています。
延長五年(九二七)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には
下野國河内郡一座大 二荒山神社名神大
とあります。栃木県内には由緒ある神社が十一社記されていますが名神大社は当社のみで代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」 と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれておりました。
(元國幣中社)
御祭神と御神徳
当社にお祀りされている神様は三柱の神さまです。
御祭神 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相 殿 大物主命(おおものぬしのみこと)事代主命(ことしろぬしのみこと)
豊城入彦命は第十代崇神天皇の第一皇子で上毛野君・下毛野君の始祖と古事記にあります。また日本書紀の崇神天皇四十八年の条には命と活目尊(いくめのみこと)の二皇子が召され共に慈愛厚く優れておられ、どちらを皇嗣とするか夢占いがなされ弟活目尊(垂仁天皇) が皇太子となり命は大和朝廷の東國守護に下向されたと記されています。
命の子孫も詔によって下り、東國御治定のよりどころとして祖神豊城入彦命と大物主命(大国さま)事代主命(恵比寿さま) を合わせて祀られました。
祭神は武徳にも優れ古くから武将の信仰が篤く藤原秀郷公(平将門の乱)源頼義・義家公(前九年・後三年の役) 源頼朝公(源平の役)徳川家康公(関ケ原の合戦)など各々当社に戦勝祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築をされています。
因に江戸時代の当社神領は千五百石に達し鹿島・香取神宮を上回っていました。
また火防信仰も古くから起り十二月十五日・一月十五日の冬・春渡祭(オタリヤ)には今でも県内・近県からの信者で夜遅くまで賑わっています。
宝物・丈化財
三十八間星兜(国指定重要美術品)
鉄製狛犬 (国指定重要美術品)
正次作太刀 (県指定文化財)
新式和歌集(市指定文化財)
本殿勾欄擬宝珠(市指定文化財)
三十六歌仙額 (市指定文化財)
(神社パンフレットより抜粋) |