御由緒 |
鎌倉に八幡宮を祀ったのは、八幡大神が清和源氏の氏神であり、源頼義、義家、頼朝らが鎌倉を根拠の地としたからである。源頼朝は源氏再興の旗を上げ、治承四年(一一八〇)十月、鎌倉に入ると先祖頼義の祀った鶴岡若宮の神前に詣でて籖をひき、神意を伺って現在の地に奉遷した。その時のことは「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)十月十二日の項に見えている。「辛卯快晴。寅の尅、祖宗を崇(あが)めんがために、小林郷の北山を點じて宮廟を構へ、鶴岡宮をこの所に遷したてまつらる。」この鶴岡宮とは後冷泉天皇の御代、康平六年(一〇六三)、源頼義が『前九年の役』で奥州を平定した帰途、かねて御守護を祈って出陣した石清水八幡宮を鎌倉由比郷鶴岡の地にひそかに勧請して社殿を建て、永保元年(一〇八一)二月に頼義の嫡男八幡太郎義家が修復を加えて祀っていた社であった。然しこの頼朝の祀った社は、軍陣の傍取急いだ奉行であったので、茅葺であり、柱も黒木のままの応急の御造営であった。
頼朝はその年、富士川に平家の大軍を破るとすぐ十二月には鳥居を立て、翌治承五年(一一八一)五月から大改築を行った。鎌倉には然るべき大工がいなかったので、武蔵国浅草の大工を召寄せて造営に当て、八月十五日には正遷宮を行った。頼朝は更に社頭の整備にとりかかり、養和二年(一一八二)三月、御台所政子の安産祈願のため、鶴岡社頭より由比浦に至る曲横の道を真直に改めて参詣道(現在の段葛)を造った。四月には源平池を掘って水を湛え、社殿を中心に左右に広がる林泉を整えた。三島社・熱田社など頼朝ゆかりの諸社の末社を境内に奉祀するなど、社頭は漸次面目を新たにしている。九月には源氏ゆかりの三井寺より中納言法眼円暁を迎えて、初代の別当職に補した。円暁は後三条天皇皇子であったので、宮法眼とも呼ばれる知識であった。別当職を長官とし、祭祀組織も整い、社頭諸施設、年中祭祀など一段整備されたことはいうまでもない。流鏑馬・相撲などの神事、放生会などの奉行が始まり、静御前の舞った若宮殿もこの時期のものであった。
建久二年(一一九一)三月四日、町辺に起きた大火に遭って、不幸にも若宮社殿・廻廊などほとんどが灰燼に帰した。幕府も難に遭って焼失したが、頼朝は社頭に詣り、わずかに残った礎石を拝して涙にむせんだという。直ちに焼け残った別当坊に入って、若宮新造の事を命じている。御復興は早く、全国統一の功成った頼朝は総力を挙げて、幕府の中心と仰ぐ守護神にふさわしい御社殿の御造営に力を尽くした。大臣山の地を拓いて、一段高く楼門を仰ぐようになったのはこの時であった。
建久二年(一一九一)十一月二十一日、鶴岡八幡宮をはじめ若宮・末社に到るまで遷宮を厳粛に斎行した。この大臣山上の本殿は『始めて八幡宮を勧請し奉らんが為め』のもので、御遷宮の秘儀には、京都より伶人多好方(おおのよしかた)を召して奉仕させてい
る。鶴岡八幡宮の創建を建久二年十一月二十一日と定めているのは、この時が公に石清水八幡宮から御神霊を迎えての御鎮座であったからである。源頼義奉斎の鶴岡宮・鶴岡若宮或は鶴岡八幡宮とも称した社について、「吾妻鏡」が『ひそかに』と記述しているのと対応しているわけである。上宮と下宮、本宮と若宮の今日の姿が定まったのである。
こうして鶴岡八幡宮の規模はこの時以来更に体裁を整え、鎌倉幕府の宗社としてその面目を一新したばかりでなく、頼朝の当社に対する崇敬の誠は、皇室になぞらえたと思われる。
建久三年(一一九二)七月、頼朝待望の征夷大将軍の任命を受けるに当って、その除書を拝受するのに宮廷の例にならって、勅使は神前に列立し、頼朝の使者三浦義澄に渡し、正装する頼朝に進達している。鶴岡八幡宮は単に氏神社としての崇敬に留まらず、神前を通じて遠く王城を拝する機能をもつ社と尊んだのである。だから三代将軍源実朝もまた頼朝の例にならい、中納言左近衛中将、同大将、右大臣と昇進する度に、御礼言上の儀礼である拝賀の式を鶴岡の神前で行い、その出向の行装を整えての幕府と鶴岡の社頭とは京風の華やかさに人目をひいている。社頭の殷賑と壮厳については京都から東下りをした人々も眼を見張り、「海道記」・「東関紀行」・「増鏡」・「平家物語」・「源平盛衰記」などの諸書に見える。殊に「問はずがたり」には、『所のさまは男山の景色よりも海見はるがしたるは見どころありともいひぬべし』と特徴をとらえている。北条泰時は「御成敗式目」を定め、鎌倉幕府の治政の基本を示し、『神社を修理し、祭祀を専らにすべき事』を第一条に掲げている。「式目」は頼朝の方針を受け継ぎ、その政策を条文にして幕府の権威を昂めたが、その実施は鶴岡八幡宮に関する限り、北条氏執権期、足利・後北条・徳川の各氏も継承して終始変ることがなかった。
御判行事
鎌倉時代より伝えられている行事で、武将の出陣の際必ず神前に詣でて、八幡宮の神印を受けたといわれる。現在では元旦より七日まで楼門内右側で行なわれる。平素は御内陣に納めてある神印を額に押して、開運厄除・無病息災・進学成就などを祈るのである。
一月三日の元始祭にはこの御判の拝戴の神事がある。
手斧始式(ちょうなはじめしき)
一月四日午後一時より舞殿南側で執行される。治承四年(一一八〇)、建久二年(一一九一)の当宮造営には源頼朝により『造営事始』の名のもとに手斧始めの神事が行なわれた。現在では鎌倉全市の工事始めとして、鎌倉在住の建築業者の協力により執り行なわれる。御神木が神職の先導により二ノ鳥居より段葛を通り、祭場まで運ばれる。祝詞奏上の後に検知以下所役の奉仕員による所作が続くのである。
除魔神事
一月五日午前十時より舞殿で祭典執行後、大石段下境内西側で行なわれる。源頼朝は幕府に於いて『射初式』・『御弓始』・『御的始』などと称して、武家の事始めを行なった。年の始めの事始めと同時に年中の除魔を目的とした行事であった。そうした伝統を踏まえ、当宮では的の裏に鬼という字を封じ込め、十五間(約二十七メートル)の距離から射抜く神事が行なわれる。五尺二寸(約一五六センチ)の大的であるところから『大的式』ともいわれる。その所作は小笠原流の古式の作法に則り、厳粛に行なわれるのである。弓矢は古くより除魔の威力があると信じられ、こうした神事が行なわれるゆえんでもある。
左義長神事
東側の源平池の北畔にて一月十五日午前七時より執行される。『左義長』とは小正月の火祭をいい、民間ではふつう十四日の夜か十五日の朝に行なわれ、『トンド』・『ドンドンヤキ』・『サイトウ』とも呼ばれる。当日は門松や注連飾を始め、氏子・崇敬者の持ち寄った古神札・お守などを二基の左義長に納め、祭事の後にそれらを焚き上げるのである。
節分祭
節分とは季節の変わる時の前夜をいうが、特に冬から春に変わる立春の前夜をさすようになり、邪気を祓い、幸福を祈る行事が行なわれるようになった。今日一般家庭や社寺に於いて、宮中の追儺(ついな)の行事にならい鬼打ちや豆まきが行なわれている。当宮では午後一時より本宮にて祭典が執り行なわれた後に、舞殿で『鳴弦式』(めいげんしき)が執り行なわれ、年男たちにより豆まきが行なわれる。
若宮例祭
四月三日午前十時より執行される。若宮には神輿四基(県の重要文化財)があり、古くは本宮と同様に神幸祭が行なわれた。また神楽や流鏑馬も行なわれていた。
菖蒲祭と舞楽
五月五日は『端午の節句』とか、『菖蒲の節句』ともいわれる。宮中では古くより競馬・騎射などが行なわれ、節会も盛んに催された。またこの節句は男児の節句ともされ、武芸の奨励もされるようになった。当宮に於いては「吾妻鏡」によれば文治三年(一一八七)五月五日より神事が行なわれていた記録があり、戦前に於いては『尚武祭』とも称された。当日は午後一時より舞殿で祭典が執行され、夏を迎えるに当り、邪気を祓い、延命長寿が祈願されるのである。その後に舞楽が奉納される。当宮の舞楽の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡り、当時の舞楽面が伝えられている。当日は当宮の敬老会の日であり、八十歳以上の老人が招待され、鳩杖やお守などを受け、遊戯や舞楽を鑑賞するのである。
雪洞祭(ぼんぼりまつり)
立秋の前日より、八月九日までの三日間(閏年は四日間)鎌倉在住の諸名士により四百点余りの書画が奉納され、それを雪洞に仕立てて境内に掲揚される。夜間は点灯され、風情豊かに神事神賑が繰り広げられる。初日は夏越祭(なごしさい)と称する。夏の終りに行う祓(はらえ)を『なごしの祓』といい、疫病・災禍を祓い鎮め、もって天下泰平・五穀豊穣を祈願するのである。夏越祭は午後三時より執行され、特に修祓(しゅばつ)が厳修される。祭典奉仕者は東側の源平池北畔に座し、大祓詞(おおばらえことば)の宣読につれて『古式祓』を修し、社務所前にて茅ノ輪をくぐり、その後舞殿で祭典が執行される。翌日は立秋祭と称し、午後五時より同じく舞殿で祭典が執行される。神前にすず虫の入った虫籠が献上され、秋の訪れを奉告し、みのりの秋を言祝ぎ、生活の更新を喜び、夏の間の無事を感謝する祭りである。八月九日は実朝祭と称し、午前十時より境内の白旗神社にて祭典が執行される。この日は実朝公の生誕の日に当り、公の遺徳を顕彰する祭りである。期間中は祭典の外に奉納の、日本舞踊・音楽会・俳句会・短歌会・茶会・華会などが開催される。
例大祭
九月十四日の宵宮祭、十五日の例大祭(本宮での祭典)と神幸祭、十六日の流鏑馬神事と三日間にわたり祭事や神賑が繰り広げられる。例大祭とは神社に最もゆかりの深い日を以って定められ、最も大切で盛大な祭りである。当宮ではかつて行なわれていた放生会の日を例大祭の日と定め、それは旧暦の八月十五日である。文治三年(一一八七)八月十五日、初めて源頼朝により放生会と流鏑馬神事が行なわれた。十五日は午前九時半より本宮にて祭典が執行され、午後一時より神幸祭が行なわれる。神輿三基(県の重要文化
財)が出御し、錦旗・神馬などの行列が二ノ鳥居まで進み、御旅所祭が執り行なわれ、再び行列を整えて、本宮へと向うのである。本宮の祭典後舞殿で、また二ノ鳥居の御旅所で八乙女神楽が奉奏される。これは古くより当宮に伝わる神楽である。
流鏑馬(やぶさめ)神事
文治三年(一一八七)八月十五日、源頼朝により初めて行なわれた。頼朝がこの流鏑馬執行までに色々と研究を重ね、西行法師に宮廷風の流鏑馬の方法を問うた話は有名である。それ以来今日まで八百年の伝統を保持して行なわれている。現在は九月十六日午後一時より執行される。先ず舞殿に神酒拝戴式が執り行なわれる。奉行の祭文奏上や、晴れの射手三人が神酒を戴き、八幡大神の御照覧に応えるべく日頃の鍛練の総力を尽くすことを祈念するのである。次に射手は騎乗して、神職・奉行以下諸奉仕者は行列を整え、馬場入(はばいり)が行なわれる。諸役が配置につき、準備が完了すると馬場元役・馬場末役が紅白の扇により馬場内の安全が確認される。後に一ノ射手より三ケ所の的を矢で次々と射るのである。それはほんの十数秒のことであるが、拝観者はかたずを飲んで見守るのである。流鏑馬神事は現在は三騎であるが、平騎射(射手は簡略な服装となり、『騎射挾物』(きしゃはさみもの)ともいう)が十数番行なわれる。
例大祭神賑
三日間にわたる例大祭には祭事の外に境内で色々な神賑が繰り広げられ、より一層祭りを盛り上げるのである。奉納の弓道・剣道・柔道の各武道大会及び華会・茶会・日本舞踊・音楽会などが催される。また、境内では三日間鎌倉囃子の笛や太鼓の音が賑やかに鳴りひびくのである。
御鎮座記念祭
十二月十六日午後五時より執行される。先ず本宮で祭典が行なわれ、舞殿北庭にて御神楽が奉奏される。建久二年(一一九一)、大臣山の中腹に始めて本宮が鎮座して現在のような上宮・下宮の様子が定まった。その鎮座の日は十一月二十一日で、京都より楽人多好方(おおのよしかた)を招き、『宮人曲』を唱え、頗る神感の瑞相があったと「吾妻鏡」は伝える。この十一月二十一日を本宮の御鎮座の日とし、現在では新暦に換算して十二月十六日に記念祭が行なわれ、その当時唱えられた『宮人曲』を復元して奉奏されている。また『其駒』も唱えられ、庭燎に映える人長の舞姿は大宮人の優雅さを思わせる。
大祓(おおはらえ)と古神札焼納祭
大祓は六月三十日(午後五時執行)と十二月三十一日(午後三時執行)と年二回行なわれる。大祓は日頃の罪穢を祓い清める行事である。形式(かたしろ)・人形(ひとがた)などと呼ばれる人の形をした紙に名前を書き、息を吹きかけ、身体をなでて、それに罪穢を託して海へと流すのである。また、大祓式の後に氏子・崇敬者が持ち寄った古い神札やお守などを焼納するお祭りも行なわれている。
(平成祭データ) |