御由緒 |
鎮座地
千葉県館山市洲崎の御手洗山(みたらしやま)に鎮座。御手洗山は標高一一〇メートル、洪波万里・黒潮躍る太平洋を一望し、富士の霊峰、大島の御神火を指呼の間に望む風光明媚な山稜で、神社山とも呼ばれている。
御祭神
平安時代の延喜式神名帳に、后神天比理乃碓命(あまのひりのめのみこと)神社とあり、安房神社の御祭神天太王命(あまのふとだまのみこと)の后神を祀る式内大社で、元の名を洲(すさき)ノ神と称した。
御由緒
神武天皇の御代、勅命により天富命(あまのとみのみこと)が四国の阿波の忌部(いんべ)族を率いて房総半島を開拓され、忌部の総祖神天太玉命を祀ったのが安房神社で、后神(きさきがみ)天比理乃畔命の奉持された御神鏡を神霊として祀られたのが洲崎神社である。
奈良時代の養老元年(七一七)大地変のため境内の鐘ケ池が埋まり、池底の鐘を守っていた大蛇が災いをしたので、役(えん)ノ行者が七日七夜の祈祷をして、明神の御神託により大蛇を退治して災厄を除いた。鎌倉時代の治承四年(二八〇)源頼朝が参籠して源氏の再興を祈念し、寿永元年(一一八二) に妻政子の安産を祈願して、広大な神田を寄進している。室町時代には江戸城を築いた太田道潅が、鎮守として当社の分霊を奉斎したのが神田(かんだ)明神の攝社八雲神社の前身とされ、今も疫病を防ぐ神として崇敬されている。里見七代義弘は社領五石を寄進、徳川幕府も朱印状で安堵している。
江戸時代後期の文化九年(一七九七) 房総の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主老中松平定信が当社に参詣して、「安房国一宮洲崎大明神」 の扁額を奉納されている。
御神徳
御神階は七十二代白河天皇の永保元年(一〇八一) 正一位に、九十一代後宇多天皇の弘安四年(一二八一) に元冠(げんこう)の役の功により勲二等に叙せられ、明治六年(一八七三) 県社に列せられた。数々の御霊験から、古来安産や海上安全、交通安全、厄除開運の守護神として、また漁業や農業の殖産興業の神として深く崇敬されている。
御祭事
祭礼は二月の初午と、八月二十日、二十一日の例大祭で、共に国の文化庁選択記録保存、県指定無形民俗文化財の「洲崎踊り(鹿島踊りと弥勤踊り)」が奉納される。八月の例大祭には、百五十の石段を降りる勇壮な大小の神輿の渡御があり、海上安全・大漁祈願の浜祈祷が行われる。
文化財
社宝である養老元年(七一七) 万治二年(一六五九)宝暦三年(一七五三)の三縁起や御神体髪のほか、延宝年間 (一六七三~八〇) の改築とされる神社本殿は三間社流造(さんげんやしろながれつくり)、唐様(からよう)の三手先組(みてさきぐみ)、木鼻や欄間などに彫刻が施され、外部は丹塗仕上げで市指定有形文化財である。
御手洗山は「洲崎神社自然林」として、昭和四十七年(一九七二) 県指定天然記念物となった。
随身門は宝永年間(一七〇四~一一) の建造、中の矢大臣・左大臣像は明治三年(一八七〇) の作とされている。
境内社
稲荷神社 祭神は字迦之御魂(うかのみたま)命 (倉稲魂命) 殖産興業の守護神
金比羅神社 祭神は金毘羅大神 海上・航海安全の守護神
長宮(ながみや)の祭神
右より大物主命(大国主命の和魂にぎたま) 農工商・医薬の神
建速須佐之男命(素戔鳴命) 開発・植林の神
大山津見命(大山祇づみ命) 山をつかさどる神
豊玉彦命 海をつかさどる神
(神社パンフレット「式内大社 洲崎神社参拝の枝折」より)
館山市有形文化財(建造物)洲崎神社本殿
県指定:昭和47(1972)年9月29日
屋根は銅板葺の切妻造で、前方の流れを延長して向拝屋根としたいわゆる三間社流れ造りで、柱などの軸部は朱塗りで仕上げられています。軒下の組物を、寺院建築で用いられる唐様三手先とするのは、珍しい点といえます。
社伝では延宝年間(1673~81)の造営とされていますが、三手先の形式がくずれている点や、支輪や虹梁・蟇股などの彫刻に江戸時代中期以降のものが多い点から、その後に大規模な修理が加えられていることがわかります。
しかし本殿の正面と背面には、古い社殿の部材と思われる蟇股もあります。とくに背面の竹に虎を配した彫物のある本蟇股は、江戸時代初期の寛永年間(1624~44)頃の様式に従っているもので、延宝年間の造営の際に再利用されたものと考えられています。
平成20年7月 館山市教育委員会
(社頭案内板より) |