鎮座地 |
〒930-1368 富山県中新川郡立山町芦峅寺2 旧越中国 新川郡 |
電話 |
076-482-1059 |
旧社格等 |
国幣小社(現別表神社)
越中國一宮
式内社 越中國新川郡 雄山神社 |
御祭神 |
・天手力雄命
・伊弉那岐命
(配祀)
・文武天皇
・佐伯宿禰有若
・稻背入彦命 |
御由緒 |
御由緒
文武天皇の大宝元年(七〇一年)越中国司佐伯宿祢有若卿の嫡男有頼公が白鷹と里熊に導かれ立山の玉殿岩窟に於て、「我、濁世の衆生を救わんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受けて開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅の地に、立山の雄山神(立山大宮)・剱岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ、壮汰なる神社仏閣が建立された。有頼公自ら立山座主として此の芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられた。
以来神仏習合の一大霊場として、皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇、後醍醐天皇の勅願所であり、清和天皇貞観五年、字多天皇寛平元年に叙位せられ、平安期の後白河法皇御撰の梁塵秘抄には、「験仏の尊きは先づ東の立山」と、全国著名の霊場の冒頭に書かれている。また「越中国一宮」と鎌倉時代の安居院神道集に誌され、同じく鎌倉時代の拾芥抄には、「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されているように、一般民衆の信仰も大変篤かった。
鎌倉幕府が文治元年、諸堂を造営して深く崇敬し、室町幕府足利歴代将軍・越中守護代神保長誠公・佐々成政公等々、殊のほか篤く保護造営されてきた霊場も、天正十三年八月、富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により、当芦峅寺がことごとく焼き払われ、以前の諸堂を殆んど失った。
「東は立山ウバダウつるぎの山の麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら五名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、続群書類抄にも「至リ越後界ニ、立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。この祖母堂とは芦峅寺のことである。
加賀藩主前田利家公領主となり復興造営に保護を加え、再び盛賑を極めるに至りしも、更に明治維新の廃仏棄釈・神仏判然令により一大改新を加えられたため、中宮寺女畾*1堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し廃虚と化してしまった。只、根本中宮の現境内のみが残り雄山神社として明治六年県社となり、昭和十五年国幣小社に列せられた。
本殿、立山大宮
主祭神 伊邪那岐神
号 立山権現雄山神
本地阿弥陀如来
相殿神 第四十二代文武天皇
佐伯宿祢有若公
本殿立山若宮
主祭神 天手力雄神
号 刀尾天神剱岳神
本地不動明王
相殿神 稲背入彦命
祈願殿(拝殿)
諸祭礼、諸祈願等の中心堂社なり
明治維新まで大講堂と称し、改新後祈願殿と称す。
両本殿主祭神をはじめ、立山全山三十六末社の神々を合祀す。
(神社パンフレット「芦峅中宮 略記」より。註:女畾*1は女ヘン+畾)
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参拝月日 |
05/19/2010 |