出雲國一の宮「式内社」熊野大社(くまのたいしゃ) HOME blog

鎮座地 〒690-2104 島根県松江市八雲町熊野2451 旧出雲国 意宇郡  
電話  0852-54-0087
旧社格等  国幣大社(現別表神社
出雲國一の宮
式内社 出雲國意宇郡 熊野坐神社(名神大)
御祭神  ・櫛御食野命
御由緒  出雲国一の宮 熊野大社
「出雲」は、我が国の歴史で最も古い時代から見られ、しかも尊厳な由緒豊かな神社が多く存在するために、「神の国」と云われている。「八雲立つ出雲」と称するのも、多くの神々が坐す出雲との意味があるが、出雲の神のなかの大神と崇敬されるのは、かって「厳神の宮」と讃えられたこの熊野大社のスサノヲノミコトである。
 熊野
『出雲国風土記』(733)は、クマクマシクして神が鎮まるのに適しい処を「熊」と名づけて聖地とみなしている。神稲・神代は
クマシロと訓み、神=クマ=カミであり、更にクマが転じてクモともなる。
 熊野に坐す神は、人々の幸福と繁栄と平和を保障されて人々の期待に応えられたので、此処に人々は心楽しく生活を営んできた。山陰最古の石器が発見されたのによっても悠久の昔からクマノは住み良い処であった。人々はカミマツリの広場を取り囲み、これを共同生活の精神的支柱としてクニヅクリを始めたにちがいない。熊野に坐すスサノヲノミコトは人々に楽しく生きる力を与えられて鎮座された。
 出雲国一の宮
『出雲国風土記』に「熊野大社」と記載され、『延喜式神名帳』(927)に「熊野坐神社」とあるのは、この熊野大社を云う。『
日本書紀』によれば、熊野大社は斉明天皇5年(659)に出雲国造をして造営されたとある。出雲国造は、かって代替りの時、天皇の大御前で天皇の大御世を祝する「出雲国造神賀詞」を奏上したが、その中で出雲国の筆頭の神として当社のスサノヲノミコト(熊野大神櫛御気野命)を挙げ、出雲国の一の宮として祭祀を司り、また政治を治めた。       
 御祭神(おまつりするカミ)
伊射那伎日真名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎熊野大神(かぷろぎくまぬのおおかみ)櫛御気野命(くしみけぬのみこと) 「伊射那伎の日真名子」とは、国生みを始めて生きとし生けるものを生かし、その主宰の神をも生み給うたイザナギノミコト・イザナミノミコトの可愛いがられる御子との意である。「加夫呂伎」とは神聖なる祖なる神である。「熊野大神櫛卸気野命」とは、この熊野に坐す尊い神の櫛御気野命という意である。
 名は神格の本質をあらわす。故に卸祭神の本質は、人々の食して生くべき食物に霊威をみちびき、農耕生産の豊穣を約束して、人々の営む万般の生業の発展を保障され、人の世の繁栄と平和、人々の幸福をみちびかれる深厚高大な霊威を発顕具現されるところにある。
 素戔嗚尊 スサノヲノミコト
天照大御神の御弟神である。「伊射那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とは、スサノヲノミコトの別神名である。
 スサノヲノミコトは、出雲の簸の河上で八岐大蛇を退治された神話に見られるように、人間社会を洪水の災害から救われて稲田の豊穣をもたらされ、人の世を和楽にみちびかれた。スサノヲノミコトは、不思議な霊威をあらわして成りと成り出づるものが豊富であるようにと世の人々を導かれたのである。
 これは、人間社会につきまとう人間であるがために逃れられない不安と苦悩を取除いて、人間の営む社会生活の繁栄と平和をもたらされた、ということを意味している。
  スサノヲノミコトは人間の幸福を約束される愛の神
  スサノヲノミコトは人間の願望期待に応えられる救いの神
  スサノヲノミコトは人の世の幸栄のムスどの神
 スサノヲノミコトに見守られている限り、人の世は立ち栄えるのである。熊野大神の御神縁に結ばれる人々は、その御手振りに神習って、御神光があまねく世に輝きわたるように神意奉行を尽くさせて戴きたいものである。
   八雲立つ出雲八重垣 妻ごみに
   八重垣つくる その八重垣を
 との御神詠は稲田姫命との御結婚の寿歌であり、和歌の初源である。
 御由緒
『古事記』(712)、『日本書紀』(720)は、スサノヲノミコトが八岐大蛇退治された後に、「吾が心すがすがし」と申されて宮
殿を営まれた処を「須賀」と記し、また「熊成峯に居し」とも書いている。更に『出雲国風土記』は、「熊野山、所謂熊野大神の
社坐す」と記している。創祀は斉明5年(659)と『日本書紀』に伝えている。
 この熊野山は現に“元宮ケ成”と称しており、古代祭祀の巨大な磐座がある。すなわち、「熊成峯」・「元宮ケ成」とは聖地の尊称であり、共にカミが顕現された処を表現していると云えよう。熊野大社の元々の宮地は、清浄な山であって意宇川の源流もこゝにある。
 この「熊成峯」・「元宮ケ成」に熊野大神の創祀がある。
古い世から信仰は広まり、常に杵築大社(出雲大社)より神階が上位にあったことからしても、如何にその御神威が尊貴であり、御神徳が広厚であったかを知ることが出来る。
 『延喜式神名帳』のなかで特に「大社」の称号を負う神社は稀れであることによっても、出雲という僻陬の地に坐しながら「熊野大社」と敬仰される程に由緒は深遠である。
 然しながら、社運の衰微によって中世に至ると、上の宮を熊野権現と拝し、下の宮を伊勢宮と敬して二社祭祀の形態に造営された。このため、かえって祭祀と尊崇に複雑な変化と混乱をみた。更に、戦国時代には兵火によって社殿及び記録のすべてが烏有に帰し、その後は仮殿を営んで明治に至ったことは残念なことであった。
 明治4年(1871)の神社制度の改正によって「国幣中社」に列せられたのを機に、現今の社地に神域を整備して上の宮と下の宮とを合祀して造営が進められ、同41年に造営は成った。大正5年(1916)に「国幣大社」に仰出され、同8年には修理、神域拡張を行い、昭和23年(1948)及び53年に修理造営して社頑は面目一新した。しかし、往古の結構は再興されていない。常に御神威を歴
史の上に顕現された熊野大神の御神縁に結ばれている氏子崇敬者は、神意を恭畏して復興を念じつづけている。
 出雲国造の霊継
火は霊(ヒ)であり、出雲国造は、熊野大社の神火を戴くことにより、初めて神性国造としてその職を襲うことが出来る。
 熊野大神の御神意に叶うことが最高の条件である。古来、出雲国造は連綿と代替りの時に当社へ参拝し、神器のヒキリウス・ヒキリキネで神聖な火をキリ出して斎食を調整し、熊野大神と相嘗(共に食す)することにより新国造、神性国造となる。
 特殊神事 鑽火祭
毎年10月15日、出雲国造(出雲大社宮司)が参向し、自らが出雲大社で用いる神器、ヒキリウス・ヒキリキネを拝戴する鑽火祭が斎行される。
 この祭では初めに出雲大社から約1メートルはどの一重の細長い神餅が供せられ、この神餅に対し、熊野大社社人・亀太夫が公事(神餅の出来ばえに対し苦情)を申したてる亀太夫神事が執り行われて神器が授け渡される。その後出雲国造が神前に進み出”すめかみをよきひにまつりしあすよりはあけのころもをけころもにせん”との神歌と打ち鳴らす琴板の楽に合わせ百番の舞(神舞)を納める。
 因みに出雲大社では、年間72度の祭儀があるが、別して重儀とされるのは11月23日の夜に奉仕される「古伝新嘗祭」であり、毎年この時に熊野大社から授かった神器によって神火がキリ出され、斎食が調整され、出雲国造は神々と相嘗をし年々の国造の霊威のよみがえりをはかる。
 境内の摂末社
御本殿は神社建築を代表する大社造である。向って右に稲田神杜があり、嫡后奇稲田姫と姫の御親の脚摩乳と手摩乳をお祀りしている。左には伊邪那美神社があり、伊弉冉尊を祀る。また、稲田神社、伊邪那美神社には旧熊野村11地区の式内社6社を含めた神社、小祠をも合祀している。式内とは『延喜式神名帳』に記載されている全国的に由緒ある神社である。明治39年に「一村一社」の制が施かれたので、これに従い明治41年に奉遷合祀された。尚、御垣外には荒神杜、稲荷神社も奉斎してある。
 熊野山
当社の南方3キロ、意宇川の源がある標高610メートルのこの山は、島根県八束郡八雲村と同県能義郡広瀬町との境に位置する、このあたりで最も高い山である。ここにかつて熊野大社の元宮があった。
 現在この山は天狗山といわれているが、昔は熊野山、また熊成峰と呼ばれ、現在の名前の天狗山も、もともと天宮山と書かれていたのではないかといわれている。時代が下るにつれて、いつの頃からか発音の類似性等により元の意味が忘れ去られ、今の天狗山という表記、意味に変容し定着してしまったものと考えられる。
 熊野大社の創建については、『日本書紀』によると斉明5年(659)に出雲国造に「厳神の宮を造らしむ」とある。
また具体的鎮座地について、天平5年(733)の『出雲国風土記』には「熊野山、所謂熊野大神の社坐す」とあり、山頂近くには、今尚神が降臨された巨大な岩(磐座)が存在し、熊野大神が出雲国を国見なされた由縁からであろうか元宮ケ成と呼ばれている。
 現在では毎年5月の第4日曜日に登山し、厳かに元宮祭が行われている。
頂上からの見晴らしは、熊野大神の国見の山にさわしく、松江市はもとより天気の良い日には東は美保関、西は出雲大社まで一大パノラマである。信仰の山ではあるが、同時に近年春から秋にかけて森林浴を楽しむために登山する者も多い。
 熊野銅鐸
銅鐸は今から約2000年前、つまり弥生時代に神の霊を慰めるためにつくられた祭器、または楽器であるといわれている。
 熊野銅鐸は全長20センチほどのもので、現在日本で発見されている銅鐸の中では最古の様式を持つ銅鐸といわれている。この熊野銅鐸については、いつどこで、どのような人によってつくられたか、また材料の銅はどこから求められたのか等明らかにされていないことが多くある。近年、同じ出雲地方の斐川町・荒神谷遺跡、加茂町・加茂岩倉遺跡から大量の銅鐸が発見され注目されているが、これらの銅鐸との関連も含めて詳細が今後研究され、明らかにされるものと期待される。
 尚、現在熊野銅鐸は八雲立つ風土記の丘資料館に保存陳列してある。
 御祭日
☆1月 1日     歳旦祭 中旬以降 祝年祭
☆2月 節分の日 節分祭 11日 建国記念日祭
     17日    祈年祭
☆3月 上旬日曜 御狩感謝祭
      下旬 奨学祭 巫女交替祭 立志お祝いの祭
☆4月 13日 御櫛祭(御田植神事)
      29日 長寿祭
☆5月 第四日曜 元宮祭(元宮ケ成の山間祭)
☆6月 30日 大祓・夏越祭
☆8月 中旬 熊野ふるさとまつり
☆10月 14日 例大祭
      15日 鑽火祭(亀太夫神事) 合祀記念祭
    第四日曜 御狩安全祈願祭
☆11月 15日 紐落祭
☆12月 2日 新穀感謝祭 20日 御煤払
      23日 天皇誕生日祭 31日 大祓・除夜祭
 ☆毎月1日 早旦祭 奉養祭
  毎月15日 月次祭 奉養祭
◎御祈念は随時ご奉仕いたしますので受付に御申込下さい。
(神社パンフレット「出雲國一之宮 熊野大社 由緒略記」より)
参拝月日  10/20/2008

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一の鳥居 社殿全景