御由緒 |
氣多大社
当社は、氣多神宮とも称え奉り、能登國一ノ宮として世に知られ北陸道総鎮護のお社であります。
御祭神は、大國主神をまつり、世に大國様と申し多くの人々に崇められております。
若宮神社の御祭神は事代主命を祀りえびす様と称し親しまれている神様です。御社殿背後の森は約三万平方米の広さを有し「いらずの森」として千古の歴史を伝え北陸地方随一の原始林であります。
(社頭由緒掲示板より)
気多大社説明要記 記 平成二十一年八月吉日
- 御祭神大国主神(おおくにぬしのかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)世に、大国様、えびす様と申し上げ開運・縁結びの神として有名です。
- 気多大社は創建二千百年です。最古の文献としては万葉集巻十七に、越中の守であった大伴家持が「志乎路からただ越えくれば羽咋の海 朝なぎしたり 舟かじもがも」と記されており、当時は気多神宮と称していたことがわかります。いまは気多大社と尊称されています。(法人名は気多神社)
- 本殿背後の森は、約三万平方米一万坪の広さです。平地の原生林としては日本では、第一級の森です。(国指定天然記念物)
古来から『いらずの森』称し、一般の人々が森に入るのが禁ぜられています。神職といえども、みだりに入森が禁ぜられており、宮司が一年に一度、大晦日の午後八時頃に、松明を灯し、森の中に入り祭儀をつとめます。
気多の白菊桜(学名ケタノシロキクザクラ)神門向左花びらが八十枚から百六十枚
- 建物は本殿(御祭神大国主の神 約二三〇年前・国指定重文)、若宮神社(御祭神事代主神 約四四〇年前・国指定重文、石川県最古の木造建造物)、白山神社(御祭神菊理姫命 約二三〇年前)あぜくらづくり(約二三〇年前 国指定重文)、神門(約四〇〇年前・国指定重文)、拝殿(約三〇〇年前・国指定重文、北陸の左甚五郎といわれた山上善右衛門作、高岡の端龍寺を建立す)。
- ①皇族の御参拝 昭和五十八年五月二十二日(石川県植樹祭の砌)、昭和天皇の御行幸を迎いだ。
三井宮司御先導役(約四十分間)説明役里見信生先生(故人)で、昭和天皇には、この原生林にお入りになり植物の御観察をいたしました。
御製(和歌)を賜る。昭和五十九年元旦に御発表。
「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるをみたり」全国に八万社の神社がありますが、戦後三首目です(一首目山口県赤間神宮、二首目島根県ひのみさき神社)。
御製碑建立は(昭和五十九年七月)、英訳看板(平成十五年十一月一日建立)、英訳者、英文学者 福田陸太郎(故人)、
昭和天皇に英文学御進講、福田陸太郎全集七巻著す。歌碑は侍従長入江相政(故人)揮毒す。
②常陸宮殿下(義宮)昭和三十四年八月四日、御参拝
③秋篠宮殿下(礼宮)昭和六十年七月二十六日、御参拝
- 神門左側に「幸せむすび所」があり、これは日本で初めて出来た縁結び祈願所です。デイリー読売(平成十年二月十一日 英字新聞)で海外に紹介されました。そして若い男女の方々もとより、御年輩の方々も、我が子或はお孫さんの縁結びもお祈りし、たくさんの方々のお参りがあります。
- 境内の入口、鳥居左側に折口信夫先生親子歌碑があります。
「気多のむら 若葉黒ずむ 時に来て 遠海原の 音を聞きおり」 (釈迢空)
「春畠に 菜の葉荒びし ほどすぎて おもかげに師を さびしまむとす」(春洋)
- 気多大社では、お祭りが年間四十四回行われております。主なお祭りは、例大祭「蛇の目神事」(毎年四月三日)、
「初詣」(県内外より約二十万人参拝す)、「鵜まつり」(毎年十二月十六日午前三時に行われる。・国指定無形文化財)、
「おいでまつり」(毎年三月十八日より三月二十三日の間五泊六日の間)が行われます。
毎月一日、ついたちむすびまつり(無料オハラィ、無料占い)
- 「気多」の名の由来については、穀物に関係する、あるいは橋げた、またアイヌ語ではコタ(滞在するの意)など
いろいろな説がありますが、はっきりしていません。
木(樹木)-気-が多い。霊気あらたかな神社ともいわれています。
- 伏木の気多神社、岐阜の気多若宮神社ほか全国各地に気多の名のつく神社があります。
- 雅子妃殿下の高祖父、丹羽与三郎房忠氏が明治十二年四月から同年九月まで気多大社の宮司として御奉仕していました。
- 旧国幣大社の神社六社、気多(石川)南宮(岐阜)大山祇(愛媛)多度(三重)熊野(島根)高良(福岡)
(神社パンフレット「気多大社説明要記」より)
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