越中國一の宮「式内社」氣多神社(けた) HOME blog

鎮座地 〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1丁目10-1 旧越中国 射水郡  
電話  0766-44-1836
旧社格等  県社
越中國一宮
式内社 越中國射水郡 氣多神社 名神大
御祭神  ・大己貴命
 ・奴奈加波比賣命
(配祀)
 ・菊理姫命
 ・事代主命
御由緒    越中の国一宮
  延喜式内名神大社
 氣多神社
当社御由緒
 当社は氣多大神宮とも称し奉り、延善の時代には名神大社に列し、越中国三十四座のうちの最上位として越中一宮の御社格を有せられた神社で、北陸道鎮護の大社であります。
御神徳
 五穀豊饒、福徳円満、開運、業務繁栄、縁結び、病気平癒、交通安全
延喜の時代:第六十代 醍醐天皇の時代。
名神大社 :有名な神社
御祭神
大己貴命(おお なむちの みこと)
 :又の名〔大国主神〕〔大穴牟遅神〕〔ハ干矛神〕
・出雲大社を本貫とする祭神。須佐之男命の義理の御子。
事代主命(こと しろ ぬしのみこと)
 :大国主神 と 神屋楯比売命の御子。雨乞いの神
菊理媛神(きく り ひめのかみ)
 :加賀白山神社、白山信仰の神社の祭神。
奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)
 :又の名 〔沼河比売〕 越後の国の姫  

 越中国一宮 氣多神社 略史
天平 四年 732年 ′
 能登国一宮氣多大社より御分霊〔大己貴命〕を勧請され、氣多大神として御鎮座賜り越中国一宮氣多神社となる。
天平十八年 746年
 従五位下大伴家持 第二代越中国守着任 一751年まで
天平宝字元年757年
 能登四郡が分立し、越中国は射水・砺波・婦負・新川の四郡となる。
延長 五年 927年
 当社は、越中国三十四座の名神大一座として神名帳こ登載される。
文治 三年1187年
 源 頼朝が北陸道及び畿内に宣旨を下し源 義経を捕らえさせたが、義経は逃れ北陸道に入り如意の渡しを過ぎて行く。
天文 年中1550年
 上杉 謙信の兵火により当社は焼失する。
天保 二年1645年
 加越能大守 前田 利常候、当社を崇敬し神殿、拝殿等を再建する。
慶安 三年1650年
 前田 利常候が社領十万石を寄進して子 綱紀の安全息災を祈願する。
明治 二年1869年
 廃仏棄釈の令により当社本地仏が旧国分寺跡の薬師堂へ遷す。
明治 六年1873年
 当社は縣社に列す。
昭和 六年1931年
 文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定された。
昭和二五年1950年
 社殿修理のため為、本殿の解体工事着手する。〔工事費‥340万円〕
昭和四十四年1965年
 氣多神社消防隊が結成された。
昭和五一年1970年
 本殿の屋根柿葺(こけらふき)替工事完了。
平成 ハ年1996年
 氣多神社のにらみ獅子、高岡市指定無形民俗文化財に指定された。
  (境内案内板より)

重要文化財 氣多神社本殿
 氣多神社は養老二年(七一八)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(七五七)に、越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、越中国府に近い現在地に勧請したともいわれている。
 盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(一一八二)に木曽義仲、天文年間(一五三二~一五五四)には上杉謙信と二度の兵火で、ことごとく焼失したという。
 現在の本殿は、永禄年間(一五五八~一五六九)に再建されたと伝えられる。
構造は三間社流造り、柿板葺きで、正面に一間の向拝を付け、軒は二重繁棰である。斗栱は和様の三ツ斗で、軒下両側の面柱の上は舟肘木を用いる。
 向拝の斗栱は同じ三ツ斗で、正面の虹梁の上には彫刻した蟇股があるが、これは後代につけ加えたものと思われる。
向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。正面の三面及び両側面の一面は吹通しとし、意匠は簡単であるが、木割が大きく、全体に雄大な風格を備え、県内の本殿中もっとも優れた建築物である。
 氣多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、昭和六年一月十九日に国の重要文化財に指定された。
                                   平成二十一年三月
                                     高岡教育委員会
 (社頭案内板より)
参拝月日  05/19/2010

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境内入口の鳥居 拝殿