御由緒 |
由 緒
祭神 二上神 例祭日四月二十三日
北西五粁の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し詳らかでないが天武天皇の三年(皇紀一三三五 西紀六七五)正月奉幣に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた 次いで慶雲三年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀十一年從五位下の神階に叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた
やがて戦国の世屡 兵火に罹り頽廃したが前田利家利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した
維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎えられ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた
境外摂末社
日吉社 大山咋神 四月十八日
悪王子社 地主神 五月十三日
院内社 菊理媛神 五月三日
諏訪社 建御名方神 八月二十七日
高岡市護国神社 殉國諸神 十月一日
(社頭由緒掲示板)
◆由 緒
御祭神
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を奉斎し、二上神(ふたがみのかみ)とも称し奉る。
由緒概要
創始は太古のことであり年代は許かではないが、御祭神である二上神は光仁天皇宝亀十一年に従五位、更に清和天皇貞観元年に正三位を賜わり、又「延喜式」神名帳では越中国三十四座の内唯一の名神大社である。
太古より越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬され、国土を守り文化の発揚と産業の発展に力された。国司が越中に補任すれば、先ず参拝し国の安寧と五穀の豊穣を祈願した。
伝によれば養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建てこの神を祀り、二上権現と称した。当時の領域は二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り、二十二万坪に達したと言われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。
その後、承平・天慶年間及び天正年間の兵火などにより悉く烏有に帰し、衰頽し社僧の宿坊に残るは三ケ寺となった。
慶長年間、前田利長公社殿再建の上社領および一山を付し、藩の祈祷所として保護を受けた。又、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し明治維新まで続いた。明治四年国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月高岡大火の折類焼、同三十五年復興。特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(皇紀千三百三十五年)正月、奉幣に與ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏きあたりより奉幣の栄に浴した。
また、平成十七年には、鎮座千三百三十年・遷座百三十年式年大祭を斎行し、翌十八年には、拝殿を移設拡張するなどの式年大祭記念事業を行った。
現在の鎮座地である高岡古城公園は、慶長年間に前田利長公が高山右近の縄張り(設計)によって建てた高岡城跡で、社殿は本丸跡にある。廃城後は城郭、堀をそのまま残して、全国では珍しい水壕公園として市民の憩いの場となっている。
◆攝末社
日吉社〈攝社〉
二上山頂第一の峯(俗称・奥の御前)に鎮座。
大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。
例祭 四月十八日、九月二十二日。
悪王子社〈攝社〉
二上山第二の峯(俗称・前の御前)に鎮座。
地主神(じぬしのかみ)を祀る。
例祭 五月十三日、七月十日。
院内社〈攝社〉
二上山前面北の峯(院内の谷) に鎮座。
菊理媛神(くくりひめのかみ)を祀る。
例祭 五月三日、十月十二日
諏訪社〈末社〉
二上山前面西の麓(上二上)に鎮座。
建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る。
例祭 八月二十七日
高岡市護国神社〈末社〉
古城公園椿山に鎮座。
殉国の英霊を祀る。
例祭 四月中旬、十月中旬
(神社パンフレットより) |